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 肩コリとかマジちょーして欲しい。 腰痛とかもっと攻めてきていいし。風邪とか毎シーズンガンガンひいてきたいよね、とか。 「あー、あなた本質的にはからだ過敏ですからね」という野口整体的指摘も、「アナ雪」的ありのまま批判、「ありのままなんかない!本当の自分なんていない!本質なんてない!」といった合唱に飲み込まれ、 (ところで、少し前サッカー日本代表の面々が口にしていた「自分たちのサッカー」も大変な非難を浴びていましたが、みんながそう言うからふーんそうなんだそうなんだそうだよねエヘヘ「自分たちのサッカー禁止!」と息巻くひとらは、選手としてあのチームに入っていればまず間違いなく「自分たちのサッカーが…」というコメントを残していたことでしょう。という話はよく友人とする)  ちてきな人々にトンデモ扱いされているような気もしないでもない。    「大きな物語の喪失」というのは、ポストモダン思想におけるもう語られ飽きた概念ではなく、何かしら強い価値観を持った態度?生き方?が流行を示すと常に攻撃対象となり(主にネット上で)砲撃を浴びていることから、今の日本にそっくりそのまま見受けられる事態ではないのか。 「出る杭は打たれる」という言葉のほうがよりしっくりくるのは、日本に元来存在するポストモダン性のなせるわざか…。    つー話はどうでもいいとして、ここ数年来自分がよく考える「集中と発散」、これは価値観というより感覚の問題としてあるのだけど、それだって人間の生命活動を、まとめる力と散らばる力の平衡を中心に捉える、あくまで捉えるっつーわけで、それは人間観のひとつだから別に合ってるとか間違ってるとかでなし、というかそもそも正しいとか間違いとかなくて、西洋医学的にからだを見てそれが有効に働く場面が確実にあり、逆に東洋医学的に見たほうが妥当だという場合もあり、という話でしかない。  なにかを選んだつもりはいないが確かに自分はいろいろと選んできたらしいので、それを20歳半ばまでに価値観を確立うんぬん、というTVで得た知識と照らし合わせると、そうかそうか自分はそうやって人格形成をしてきたのだなと納得。  自分は確かになにかに依っている。独尊的自由ではないが、自分の依るものをよく知るということが、自分を知るということであるハズなので、自分はそれを選ばざるを得なかった自分の「...