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特定の宗教に入信したりしてませんよ

 神に祈るのはどんなとき?  信仰を持つ・持たないという二分法は、思ったほど大きな意味を持たないのだろう。古今東西あらゆる場所に神は居て、一神教の神の前にも、同じ地域に多様な神が存在したという。しかしそれが「死んだ」とされ、あらゆる時代・場所にあまねく存在したそれと繋がる人間の心性が、かつてから決定的に変容したとでもいうのだろうか。信仰を持たないという主張は、旧人類との決別を意味しているとでもいうのだろうか。最近の口癖を添えれば、こんなことは既に十分すぎるほど言い尽くされている。  心性を持ち出した途端に視点は明らかに揺らいで、天への視線は弱り、なんなら科学の力は神をも解剖してみせようかと意気込む。真に科学に身を寄せる人間は謙虚で、崇高な存在への配慮を怠らない、あるいは戸惑いを示すだろうが、それはそれで神を貶めていることに変わりはないのだ。  実験は必要なくて、人間の心性には神に備わるような神聖さがある。それは生み出す側生み出される側という因果関係ではなく、呼応するものとして当然のように無ければならない。むしろ、その呼応がなければ呼びかけなど不可能なのである。「応ずる」ことがそこにあるから、両者は存在しうる…。  まぁ、神の存在とかそもそも問題意識に上ったことないし、でも信仰心?的な?意思?はあるかな自分、っていう人間が今思うのは、信仰は受容するのか抵抗するのかってことですよ。困難な局面に際してですよ、ワタシはなんにも受け入れられない人間だから徹底的に抵抗し続ける。どっかになんかを探し続ける。その心性ってワタシにとっては信仰心と通じてます。いや、信仰心ってそれですよと。なにかあるはずという盲信がなければ、抵抗し続けることってできないですよ。ただの強情になっちゃう。  でもそれとは違って、神ってそれと反対の受容・諦め・諦念?みたいなシチュエーションをバックに語られがちじゃないっすか?受け入れ?みたいな? それも神聖ななにかとつながってるんでしょうか? 私たちってどんなときに神に祈るような心を持つことになるんでしょうか?