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 もっともロクでもないケリの付け方は、「変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ、変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を、われらに与えたまえ」(ラインホルド・ニーバー)といった格言に問いを吸わせてしまう事だ。  この場合私は、自分の思考の結論にこの一節は相応しくないとか、合致しないとか、そういうことを言っているのではない。直感として見えた解答への、たとえそれが正しいのだとしても、「直通」は今の場合、思考の放棄でしかないという事だ。  だからと言って、問いに対して自力で、答えを想定した上ではなく、丁寧に思考を進めていくべきだ、とも思っていない。自然とそうできれば良いのかもしれないが、あいにく、問いを発見した上でそれについて考えるという行為そのものが、答えというまだ中身は存在しないが形は定まったものに「当てはまるもの」を探すだけの、極めて貧弱な、ある種の束縛を受けた道筋にしかならないと感じるからである。 問いにまつわる事柄について考えてみようという提案も、十分にその先を狭めていて、言えるのは、問いと答えという二項を備え持っての完成という常識を自分に課すことはないという事だ。問いはそれだけで完成していて、その開かれ方は「答えに向けられて」いるわけでは必ずしもない。  だから何も考えていない。