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 しかし、中井久夫いうところの「不死なる意志」が、人を下支えするものではなくドグサレたヘドロのような滞留物でしかあり得なかったらどうなのだろうか。これは結果論で語っている。「こと」の果たす役割や価値に変転や転動がそもそも織り込まれているのは承知の上、しかし往々にして「そのようにしか作用しない」のであれば、それは憂うべき兆候として解釈すべきだということになる。  示された具体例、「念願の結婚」であるとか「憧れの職を得る」だとか、極めて具体的な「おもい」は実際、長期にわたる保持にあたっては、「時間」を失うという一点を持って、自己からとうに遊離した想念なのだろう。自己が時間からの影響を免れない以上、時間を反映しない「おもい」は自己との接続を安定させられない。「不死」とはすでに死んでいたのか?  問題はその先にある。常軌を逸した、判断の及ぶ領域を超えた、いわば「聖域」に掲げらることになった「おもい」を、人はどうして抱き続けることになるのか。今現在における実現可能性、あるいはそもそもの動機すら鑑みる必要のなくなった「傷のつかない」願望は、もはや熱意に駆動されないことは明白である。自己の一部でありながら、それは自己と共に生きる姿をしていないのだから。  形をなしていない、絶望に瀕しても枯れることのない生きる意志のようなもの、「どんなに悪い現実の中でも人はいい夢を見ることができる」こと。これもまた今現在を度外視しながら自己を生かす力であるはずだが、それがどこかでいびつな具体化をして、妄想的な想念に変貌する、そんな道のりがあるのだとしたら、と一抹の不安なのだ。それが湧出をやめた時に、かつての勇気は人を鈍重にする澱になり得るのだとしたら…。だってその二つの「不死なる意志」は、どこかしら似ていないだろうか?