test 2
思考に「好ましくない」という認識を与えることは、たとえそれを打ち消そうという生真面目な努力(「そんな考えも抱いてはいけない」)を持たないとしても、もっと言えば傍観・ニュートラルな受容をしたつもりであっても、思考が浮上した最初の知覚(「好ましくない」)に自身との違和が存在する以上、それは自分との間で必然的に「軋む」のだと、最近はそう考えるようになって。 ミクロでは思考を真に受けず、自身はそれに一切影響されないつもりでいて、しかしマクロに見れば背後にある構えは、そういう思考に傾く自分の状態をやはりどこかおかしい、故障しているのだと思っている。自身とまるで噛み合わない思考は、当然血肉とならないし、「好ましくない」とだけ宣告されると送り出されることも無く墓場へ流れていくしかない。相性の悪い思考へのそうした冷たい距離感は一種のネグレクトだとも言え、それならいっそ、存在を強く否定し苦悩する方がよっぽど手厚い歓迎ではなかろうか。 基本的なスタンスとしての「今それが生じることは仕方ないが、それが生じる今の状態は正しくない」という判断は、極めて冷静でなおかつ自身を定位させるものとして実際的に思える。しかしたとえそれがリアリスティックな態度なのだとしても、一回一回の経験の度には少しずつ疲労を積もらす働きをしてはいないか。実は思考に無視を決め込む前の自分は、それを見つけた時いつも小さな舌打ちをしているのだから。「仕方がない」という評価からそれとあえて取り合わない心的姿勢への推移は、他者や出来事に対して同様の対処をする場合と照らし合わせれば、決して些細ではないエネルギーを要することが簡単に想像できる。自身の思考に苛まれる事は、長期間に渡って続けることが困難だが、身を固めて距離を置きそれと関わりを拒絶する姿勢は、時間が経てば経つほど標準のものとして自身に定着していくかもしれない。 そしてそうした疲労にはなかなか気づき難いはずだ。それは「今の状態が正しくない」がゆえの疲労と混同されることも理由になるだろう。これは自身の「状態」から生じる疲労であって、「態度」から生じるものではない、と(むしろ「好ましくない思考に汚染されない自分の態度は健全」とすら思っている)。 ここで