投稿

12月, 2010の投稿を表示しています

存在することに寄せる極めて具体的な関心~あるいは充溢する存在~ 2

100メートルを9秒台で走れる人よりも、ほとんど手足を動かすことのできない人の方が「心穏やかに」存在している。そんなことが、ある。 そういうことが、やりたかった。 人の「存在の状態」を規定しているモノってなんなのだろう。 そういうことをよく考えた。 「ここに(身体を伴って)存在するってどういうことなんだろう?」。 あるいは主観的な感想を連ねるだけで終わってしまうかもしれないし、何も収穫はないのかもしれないけれども。あるいは動機など何の下支えもないのだけれど。 そういうことが、やりたかった。 ”これ”は、体裁が卒研だから、なにかしら研究(笑っちゃうネ!)の動機から始めなければいけないのかな。 動機はなんて、どこにあるのだろう。僕自身が、「身体で存在すること」に強いモニタリング機能を備えているからかもしれない。だから、身体が十分に”楽”ではないことが判ってしまって、「キミ(自分)をモット”楽”にしてあげたい」と思うのだろうか。あるいはそうかもしれない。 あるいは、僕は疲れたのかもしれない。自分の身体と付き合うことに、ホトホト。 そういうことも、あるかもしれない。 でも多分、僕は生きることに(確定的な)意味なんかないって思っていて、だから逆説的に「生きること(活きること)」に執着を始めて、その舞台が身体(存在)になったんだろう、と思う。 百年経てば、それこそ跡形もなく消えてなくなってしまうのだから、そんなことにこだわるよりも、もっと意味を作り出す行為だってあるだろうに(石版を残すとか)。 でも、「そういう”意味のあることは”いつも副次的なんだ」と僕は思う。きっと、彼ら(誰?)の本務は「ただ生きる」ことだったのだ、と思う。だから、”これ”を「みんなのハナシ」に定立させられれば、とひそかに願っている。本当は誰もそんなことは考えないのだろうけれど、僕にとっては「みんなのハナシ」なのだ。 「みんな生きてる、やぁ奇跡」 では、また。

富良野とコーヒー リターンズ

今季、全然プラクティカルではない知性が絶好調であったであろう時の文章。せこいですね。使い回しですね。でも確かに、よく思いついてます。今の自分じゃとてもちょっと追いつけないないな。 では。 「自分が見ている赤という色は、他の人にも同じような色彩として見えているのだろうか?」という子どものときに色々な人が思ったこと。 クオリアの話では、ないですよ。 色彩はどうか知りませんが、少なくとも、世界の”見え”は人それぞれ違う、でしょう。だって、野口先生は人の身体の悪いところが黒く見えた、というのですから。僕には人の身体はそういう風には見えません。だから、”見え”、引いては世界に対する感覚全てにおいて、人それぞれ異なる側面がある、と言っていいかもしれません。まったく違うと言うと誤るでしょうが、多少の個体差はある、はずです。 ここからが本題ですが、それで、子どもは何故にして最初の疑問を持つことになるのか。思うに、それは本態的に疑問ではない。実は、子どもは”見え”が人によって差異を持つことを無意識に「知っている」のではないか。「知っている」からこそそんな思念が意識に上ると言ってもいい。「知っている」のならそんな疑問が起こるはずはない、のかもしれませんが、そういう疑問をわざわざ(「知っている」にも関わらず)持つのにはそれなりの理由があるのかもしれない。 答えをややこしくしてみると、「日常をそつなく送るために必要な、他人と”見え”を共有しているのだという思い込み、それをメインモードとして堅固にするためにアクロバティックな方法としてあえて、”見え”は共通なのだろうか、という問いを意識してみる」ということが必要なのではないかと、ふと思ったのです。 日常生活は、他人と同じ世界を共有していることを前提にしないと成り立たない。でも、実は微妙に共有していない。そこら辺の矛盾に整理を着けるために最初の問いはあるのじゃないのかな、と思ったりしたのです。何故そういう問いが有効なのかというと説明できないのですが。 もしくは、二層の現実(日常[共有]と真相[差異])の軋轢によって生じた副産物とか、そういう解釈でもいいかもしれません。解り易い例で言えば、本音と建前のぶつかった発火熱とか。実際、大人になると現実(日常)の方が強くなってきます。 ただ、これは子どもだけの話ではないです。話...

存在することに寄せる極めて具体的な関心~あるいは充溢する存在~ 1 

タイトルを多少変えて、そろそろ本当に卒研開始です。むん。 とりあえず、タイトルと章のみを。