存在することに寄せる極めて具体的な関心~あるいは充溢する存在~ 2
100メートルを9秒台で走れる人よりも、ほとんど手足を動かすことのできない人の方が「心穏やかに」存在している。そんなことが、ある。 そういうことが、やりたかった。 人の「存在の状態」を規定しているモノってなんなのだろう。 そういうことをよく考えた。 「ここに(身体を伴って)存在するってどういうことなんだろう?」。 あるいは主観的な感想を連ねるだけで終わってしまうかもしれないし、何も収穫はないのかもしれないけれども。あるいは動機など何の下支えもないのだけれど。 そういうことが、やりたかった。 ”これ”は、体裁が卒研だから、なにかしら研究(笑っちゃうネ!)の動機から始めなければいけないのかな。 動機はなんて、どこにあるのだろう。僕自身が、「身体で存在すること」に強いモニタリング機能を備えているからかもしれない。だから、身体が十分に”楽”ではないことが判ってしまって、「キミ(自分)をモット”楽”にしてあげたい」と思うのだろうか。あるいはそうかもしれない。 あるいは、僕は疲れたのかもしれない。自分の身体と付き合うことに、ホトホト。 そういうことも、あるかもしれない。 でも多分、僕は生きることに(確定的な)意味なんかないって思っていて、だから逆説的に「生きること(活きること)」に執着を始めて、その舞台が身体(存在)になったんだろう、と思う。 百年経てば、それこそ跡形もなく消えてなくなってしまうのだから、そんなことにこだわるよりも、もっと意味を作り出す行為だってあるだろうに(石版を残すとか)。 でも、「そういう”意味のあることは”いつも副次的なんだ」と僕は思う。きっと、彼ら(誰?)の本務は「ただ生きる」ことだったのだ、と思う。だから、”これ”を「みんなのハナシ」に定立させられれば、とひそかに願っている。本当は誰もそんなことは考えないのだろうけれど、僕にとっては「みんなのハナシ」なのだ。 「みんな生きてる、やぁ奇跡」 では、また。