富良野とコーヒー リターンズ

今季、全然プラクティカルではない知性が絶好調であったであろう時の文章。せこいですね。使い回しですね。でも確かに、よく思いついてます。今の自分じゃとてもちょっと追いつけないないな。
では。

「自分が見ている赤という色は、他の人にも同じような色彩として見えているのだろうか?」という子どものときに色々な人が思ったこと。

クオリアの話では、ないですよ。

色彩はどうか知りませんが、少なくとも、世界の”見え”は人それぞれ違う、でしょう。だって、野口先生は人の身体の悪いところが黒く見えた、というのですから。僕には人の身体はそういう風には見えません。だから、”見え”、引いては世界に対する感覚全てにおいて、人それぞれ異なる側面がある、と言っていいかもしれません。まったく違うと言うと誤るでしょうが、多少の個体差はある、はずです。

ここからが本題ですが、それで、子どもは何故にして最初の疑問を持つことになるのか。思うに、それは本態的に疑問ではない。実は、子どもは”見え”が人によって差異を持つことを無意識に「知っている」のではないか。「知っている」からこそそんな思念が意識に上ると言ってもいい。「知っている」のならそんな疑問が起こるはずはない、のかもしれませんが、そういう疑問をわざわざ(「知っている」にも関わらず)持つのにはそれなりの理由があるのかもしれない。
答えをややこしくしてみると、「日常をそつなく送るために必要な、他人と”見え”を共有しているのだという思い込み、それをメインモードとして堅固にするためにアクロバティックな方法としてあえて、”見え”は共通なのだろうか、という問いを意識してみる」ということが必要なのではないかと、ふと思ったのです。
日常生活は、他人と同じ世界を共有していることを前提にしないと成り立たない。でも、実は微妙に共有していない。そこら辺の矛盾に整理を着けるために最初の問いはあるのじゃないのかな、と思ったりしたのです。何故そういう問いが有効なのかというと説明できないのですが。
もしくは、二層の現実(日常[共有]と真相[差異])の軋轢によって生じた副産物とか、そういう解釈でもいいかもしれません。解り易い例で言えば、本音と建前のぶつかった発火熱とか。実際、大人になると現実(日常)の方が強くなってきます。
ただ、これは子どもだけの話ではないです。話を広げると、人間は、実はもの凄く「知っている」のだということに繋がっていくのです。

正解とかはないですから、後でなんか考えたらまた書きます。

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