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2040年の出版文化

期末レポート転載。 2040年というとずいぶん先の未来のように感じてしまうけれど、要するに今から30年先ということだから、今20歳の人が50歳になる頃の話で、多くの人にとってはまぎれもなくやってくる未来である。決して僕らの生きることのない未来の話ではない。実際に経験するであろう未来の話なのである。   そんな未来の出版文化。   これから「出版文化はこう動いていくだろう」などといった妄想をしてみるけれど、それは多分、2040年の出版文化を予想することにはならない。というかできない。「今」できることは、「今」に存在するファクターをもとに未来像を構築するのみである。 しばらくすれば、予想だにしなかったファクターが世に登場してまた未来像を書き換えてしまうはずである。「未来」は、徐々に、自然に、なってしまうものである。それは次々と登場する(「今」からは想像もできなかった)ファクターが複雑に絡まりあっていつのまにか…、というように。だから、未来予想なんてものはほとんど当らない。「今」から「未来」へ一気に想像を飛ばそうと思っても、そこには「推移中の時間項」というものが欠けてしまうから、結局材料不足である。そして、当てる意気込みでやったものが当らないのだから、当てるつもりもない予想なんてなおさら当るはずがない。   まずはそういう言い訳から。   だけど、「今」、「未来」を予想することがまったくの徒労かといったらまんざらそうでもあるまい。「今」から「未来」へ想像を飛ばすことが、とりもなおさず「未来」を構築していくであろう「想像もできなかったファクター」を立ち上げる一つの要因となるかもしれないからである(もしかしたら)。つまり、「今」と「未来」を橋渡しする中間項を生み出す原動力となるかもしれないということ。だから、当るかどうかということよりも、いかに未来を構築するファクターの発生源となれるかどうかが「未来予想」の意義に関わってくるのではないかと思っている。だから、「今」予想することは、これから少しずつ変わっていくであろう世界に対するささやかな働きかけなのである。   で、本題。   電子書籍はどうなるか。紙の本はどうなるのか。   文字は、実際に手を動かして練習しないと身に付かないから、多分学校とかでは相変わらず手書きでの漢字練習などが残るのだろうと思う。だけど、...

アフォード

アフォーダンスということを、僕は少し誤解していたらしい。有機体(人間とか動物とか)が周囲の環境に”関わり方”を見出した時に始めてアフォーダンスは発生すると思っていたのですが、どうもそうではないらしい。つまり、具体的に言うと、「平らな、地面に水平にある板を見つけて「座れる」と感覚した瞬間に「座るアフォーダンス」は生成する」と考えていたのですが、そうではないということですね。 どうもアフォーダンスは、有機体に「発見」される前から環境側に潜在的に「実在している」ということらしい。だから、「実在論」ということになる。 だけど、有機体に発見される前のアフォーダンスって、まったく”意味”になってないですよね。というか、有機体は環境から無限のアフォーダンスを引き出すことができるわけで、環境に潜伏しているアフォーダンスというのは、形を形成する以前の「可能態」だということでしょう。 つまり、「ある」ことはあるんだけど、それがどんなものになるかは未知数で、「存在する」という事実だけが存在するという事態になっている。イメージとしては、粘土の塊があって、それはあるんだけど、まだ「なにもの」でもなくて、造形されて始めて「なにもの」かになる。そして、「なにもの」になるかというのは、作り手との関係性の中で生まれてくることであって、粘土自体には無限の造形可能性がある。そんな感じではないでしょうか。 そして僕は思うんだけど、コレって言語に似てないかなってことなんですよ。アフォーダンス的言語論ってどうすか?粘土の比喩って、言葉の生成のときによく使うんですよね。「身体という環境」なんてね。 すんません、多分自分にしかわからないことを書いて、一人で「フフフ」とほくそえんでいます。やや気持悪いです。「そもそもアフォーダンスって何?」という人、すみません。僕らが、ポールを見るとグリップしてしまうということがアフォーダンスっぽいイシューです。 では。悪の組織に誘拐されなければ卒論の続きをします。