アフォード

アフォーダンスということを、僕は少し誤解していたらしい。有機体(人間とか動物とか)が周囲の環境に”関わり方”を見出した時に始めてアフォーダンスは発生すると思っていたのですが、どうもそうではないらしい。つまり、具体的に言うと、「平らな、地面に水平にある板を見つけて「座れる」と感覚した瞬間に「座るアフォーダンス」は生成する」と考えていたのですが、そうではないということですね。
どうもアフォーダンスは、有機体に「発見」される前から環境側に潜在的に「実在している」ということらしい。だから、「実在論」ということになる。
だけど、有機体に発見される前のアフォーダンスって、まったく”意味”になってないですよね。というか、有機体は環境から無限のアフォーダンスを引き出すことができるわけで、環境に潜伏しているアフォーダンスというのは、形を形成する以前の「可能態」だということでしょう。
つまり、「ある」ことはあるんだけど、それがどんなものになるかは未知数で、「存在する」という事実だけが存在するという事態になっている。イメージとしては、粘土の塊があって、それはあるんだけど、まだ「なにもの」でもなくて、造形されて始めて「なにもの」かになる。そして、「なにもの」になるかというのは、作り手との関係性の中で生まれてくることであって、粘土自体には無限の造形可能性がある。そんな感じではないでしょうか。

そして僕は思うんだけど、コレって言語に似てないかなってことなんですよ。アフォーダンス的言語論ってどうすか?粘土の比喩って、言葉の生成のときによく使うんですよね。「身体という環境」なんてね。

すんません、多分自分にしかわからないことを書いて、一人で「フフフ」とほくそえんでいます。やや気持悪いです。「そもそもアフォーダンスって何?」という人、すみません。僕らが、ポールを見るとグリップしてしまうということがアフォーダンスっぽいイシューです。

では。悪の組織に誘拐されなければ卒論の続きをします。

コメント

  1.  アフォーダンスを、うっかりアホーダンスと言ってしまい同僚に爆笑されたことがあります。「客観的事実として存在している」「関係性」「環境」といった言葉がキーワードとなりそうっすね。
     夜中に「フフフ」とほくそえみながら考え事かぁ。ええですね~。寒すぎるくらいの夜に、美しい月を眺めながら、ほくそえむのもおつでっせ。ではでは。

     

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  2. アホーダンスって、あほ踊り(どじょう掬いみたいなもの)ということですか?今度踊ってみましょうか。でも多分、僕らがペアで踊ったら、自動的にアホーダンスになってしまうと思うんですよね。

    僕らがアフォーダンスを発見しなくても環境にはアフォーダンスが潜伏していることって、「僕が死んでも世界は続いている」っていうことですよね。つまりアフォーダンスは、独我論を超えようとしているのだそうです。素敵ですね。

    そんでは。オバマ大統領に招聘されなければ卒論をやります。

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