いい子になります
それとははっきりと意識されないけれど、微細な緊張が全身に張り巡らされている。普通なら気づかない程度の、それによって逆に厄介さを増すごく微細な緊張。まるで霜降りのように全身に遍在している。。
これのもたらすものは、身体レベルでのコミュニケーション不全である。「言葉のキャッチボール」なんてものなら出来るけれど、それ以前の身体的交感力の低下の甚だしさよ。だから、他者と共感することの歓びなんて得られなくて、そもそも人とあんまり会いたくなくなる(でも話すべきことはいっぱいあるんだけど)。
何度も繰り返すことになるけれど、「恢復」とは元の自分に戻ることではない。それはむしろ、自分を変容させること、過去の自分から跳躍すること、である。その転機に「病」というものは出現するのであって、だから病は、「このままの自分では問題あるぜ」という無意識的訴えだという解釈だっていい。そういう風に思っていない人は、「うつが治る」とか「うつが再発する」とか言う。いや、別に「うつ」に限らなくてもいいですけど。
話は戻って、しばらくは暗黒時代となりそうです。迷惑を掛けるであろう方々、申し訳ないです。でもそれは僕のせいじゃない。
話は変わるけど、「自分のせいにしない」というのはこの社会を生きていく上で非常に大切な態度だと僕は思う。人のせいにするのはどうかと思うけど、自分を責めたって良いことなんか一つもないんだから。そんなヒマがあったら養生した方がいい。「新型うつ病は自分が悪いと思わない」そうだけど、僕は自分を苛みそうになったら、「いーや、おれは悪くない!ぜーったいに悪くない!」とキツく言い聞かせる。そうじゃないとやってらんないんで。新型うつ病の方々、僕はよくわからないんだけど、あなた達も実は大変なんでしょう。だって、仕事休んでディズニーランド行っても何にもならないじゃない…。それは上司や同僚の不興を買うだけであなた株を落として損ですよ。全然得しないじゃない。あなた達が自分のせいにしないのはきっと適応反応でしょ。だから、「自分が不利益を被るような行動を取るのは原則的に自分のせいじゃない」ということになる。これを皆に当てはめると危ないけど、少なくともそう思っていた方が楽になる人がたくさんいる。
話は戻って、もう負けてもいいから、せめて訴訟は。おかしいことに対しては、きちんとおかしいと言わなければならない。いずれにせよ誰かが言わなければならないのだ。そういう共同的な責任感に駆られているわけではないけれど、個人的に納得ができません。
本当は、「想像するとは意識的な作業なのではなくて、むしろ無意識的な『内側からの到来』とでも呼ぶべきものなのだ」ということを、目標とか夢とかと絡めて書こうと思ったのだけど、憤りが募ってしまいこんな結果に。卒論どころか、本当のブログみたいになってきました。
いずれにせよ、僕たち(の方)が人間の本来の在り方を志向しているのだ、ということを僕たちの生き様でもって証明しなければいけない。そうですよね。野口先生や竹内さんやフランクルと歩みと共にしたいと願っているのだと、僕らはしっかりと示さなければならない。そうですよね。僕らが自由に闊歩してみせることで、奴らをぎゃふんと言わせてやりましょう(金をもらって)。
というわけで、しばらくは暗黒時代。
でも、「それをわかっている」ということが大事なのです。安全な認知とは「認知の仕方を冷静に認知している」という在り方しかない。正しい認知なんかない。人間の認知なんか常時流動しているのだから、ちょっと嫌なことがあればすぐに悲観的になることなんて当たり前である。むしろ、それを醒めて捉えている自分がいるかどうかという点が勘所なのだ。それが出来るようになれば、ちゃんと「自分は悪くない」と言える。だって初発の認知なんか自分のコントロールの埒外だし。後は自分が「あらあら、こんな認知しちゃって」と観察するしかない。そして「こんな非効率な認知、自分望んでないので、これ自分のせいじゃないです」と高らかに宣言するべきである。このような錯綜した精神状態が僕にとっては「まっとう」なのである。もっとシンプルに「まっとう」な人はたくさんいるだろうけれど。ただ、そういう人を僕は「おめでたい人」と呼んでいるだけのことで。
とにかく、暗黒時代。迷惑を掛けるであろう方々、許してね。そして豚は黙って金を出せ。
これのもたらすものは、身体レベルでのコミュニケーション不全である。「言葉のキャッチボール」なんてものなら出来るけれど、それ以前の身体的交感力の低下の甚だしさよ。だから、他者と共感することの歓びなんて得られなくて、そもそも人とあんまり会いたくなくなる(でも話すべきことはいっぱいあるんだけど)。
何度も繰り返すことになるけれど、「恢復」とは元の自分に戻ることではない。それはむしろ、自分を変容させること、過去の自分から跳躍すること、である。その転機に「病」というものは出現するのであって、だから病は、「このままの自分では問題あるぜ」という無意識的訴えだという解釈だっていい。そういう風に思っていない人は、「うつが治る」とか「うつが再発する」とか言う。いや、別に「うつ」に限らなくてもいいですけど。
話は戻って、しばらくは暗黒時代となりそうです。迷惑を掛けるであろう方々、申し訳ないです。でもそれは僕のせいじゃない。
話は変わるけど、「自分のせいにしない」というのはこの社会を生きていく上で非常に大切な態度だと僕は思う。人のせいにするのはどうかと思うけど、自分を責めたって良いことなんか一つもないんだから。そんなヒマがあったら養生した方がいい。「新型うつ病は自分が悪いと思わない」そうだけど、僕は自分を苛みそうになったら、「いーや、おれは悪くない!ぜーったいに悪くない!」とキツく言い聞かせる。そうじゃないとやってらんないんで。新型うつ病の方々、僕はよくわからないんだけど、あなた達も実は大変なんでしょう。だって、仕事休んでディズニーランド行っても何にもならないじゃない…。それは上司や同僚の不興を買うだけであなた株を落として損ですよ。全然得しないじゃない。あなた達が自分のせいにしないのはきっと適応反応でしょ。だから、「自分が不利益を被るような行動を取るのは原則的に自分のせいじゃない」ということになる。これを皆に当てはめると危ないけど、少なくともそう思っていた方が楽になる人がたくさんいる。
話は戻って、もう負けてもいいから、せめて訴訟は。おかしいことに対しては、きちんとおかしいと言わなければならない。いずれにせよ誰かが言わなければならないのだ。そういう共同的な責任感に駆られているわけではないけれど、個人的に納得ができません。
本当は、「想像するとは意識的な作業なのではなくて、むしろ無意識的な『内側からの到来』とでも呼ぶべきものなのだ」ということを、目標とか夢とかと絡めて書こうと思ったのだけど、憤りが募ってしまいこんな結果に。卒論どころか、本当のブログみたいになってきました。
いずれにせよ、僕たち(の方)が人間の本来の在り方を志向しているのだ、ということを僕たちの生き様でもって証明しなければいけない。そうですよね。野口先生や竹内さんやフランクルと歩みと共にしたいと願っているのだと、僕らはしっかりと示さなければならない。そうですよね。僕らが自由に闊歩してみせることで、奴らをぎゃふんと言わせてやりましょう(金をもらって)。
というわけで、しばらくは暗黒時代。
でも、「それをわかっている」ということが大事なのです。安全な認知とは「認知の仕方を冷静に認知している」という在り方しかない。正しい認知なんかない。人間の認知なんか常時流動しているのだから、ちょっと嫌なことがあればすぐに悲観的になることなんて当たり前である。むしろ、それを醒めて捉えている自分がいるかどうかという点が勘所なのだ。それが出来るようになれば、ちゃんと「自分は悪くない」と言える。だって初発の認知なんか自分のコントロールの埒外だし。後は自分が「あらあら、こんな認知しちゃって」と観察するしかない。そして「こんな非効率な認知、自分望んでないので、これ自分のせいじゃないです」と高らかに宣言するべきである。このような錯綜した精神状態が僕にとっては「まっとう」なのである。もっとシンプルに「まっとう」な人はたくさんいるだろうけれど。ただ、そういう人を僕は「おめでたい人」と呼んでいるだけのことで。
とにかく、暗黒時代。迷惑を掛けるであろう方々、許してね。そして豚は黙って金を出せ。
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