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どこでもゆける

  名前と顔は初めて公表されたんだったか、なんか変な感じ。   世論がどういう方向を向いていたのかなんて全然知らないけど、大きくて目立ちやすい声は結構聞こえてた気がする。もちろんそれは一貫したトーンを保ってではなく時々思い出したように噴出するアレであって、まるで日々のストレスを吐き出しているみたいに幾重もの"憂さ"が感じられた。というか今でもありますか。   とりあえず事の是非をあれこれ言う気はないし、第一、僕も声の大きな人たちと同じように日和見だし自分の事で手を焼いてるし。なんも言う事はないよね。   差し当たって報道自体は中立的というか淡々と事実を伝えてるだけみたいだけど、スタジオでは脂を浮かせたあの人やあの人が、もはやつばを飛ばす必要もなくなり落ち着き払った口調で総括に取りかかるのでしょうか。ずいぶん早い気がするけど。   事件自体に着目することをひとつの目線だとすれば、もう一つ気にかかるのはそれに対する人々の反応の仕方。   なんでだろう、みんなとびっきり情が深くて他人に共感する力があるような発言ばっかりなんだけど。   どうしてあなた方は自分自身のことも感覚できないくせにそこまで感覚が届くの?どうしてあなた方は自分自身と交歓できないくせに他人に簡単に共感できるの?どうしてあなた方は吐き捨てたような発言に自信が持てるの?どうしてあなた方はそこまで簡単に断言することができるの?どうして……   あなた方の想像力は「加害者」にまでは及ばないのでしょうか?及んだって正当化できるものではないけど。   僕らが何か発言するとすれば、それにはまず日々の暮らしに歓びを感じてからするべきです。不満というのは、僕らの直面する面倒から生じるのじゃくなくて僕ら自身の状態から出てくる。もちろんどんな人にも厄介な事は降りかかるけれど、日々をきちんと楽しんで生きる人は目の前の厄介をどう切り崩すか (あるいは放っておくか、待機か)という主体的な思考の巡らせ方をしていて、難題があること自体に(否応なく)心を砕いているわけではない。 まぁ、いいや。そんなセミナー的講釈は。   少なくともいえるのは、あんたらなんかの想像力は大きく...

Tumble.com

  「あなたはどんな人になりたいか」なんて聞かれたら、まずは大きく顔を歪め、あるいは不意打ちに狼狽したふりをして、内心その質問の裏にある意図に辟易するに違いないよ。間違いないね。   だってそんなことを聞く人間は、こっちの答えなんかお構いなしに自己啓発的な説法を始めるものだし、その据わった瞳は僕がクタクタになってもそれと気づけやしないし。終いには、(たとえ到達しても報われない)自分の夢を語り始めるんだ、きっとネ。興味ないって、僕の貧乏ゆすりが語ってる。頼むから僕を放って置いて。   なんてアメリカ文学みたいな文章を書きたいわけじゃなくて、「どんな人間になりたいか」の回答だってある、という事。   社会では本来どんな人間が求められているのか。これはもう強く強調したいのだけど、力があるとか優秀だとか役に立つとかは二の次。本当に。というか、大抵の人は望んだって優秀になれやしないし、なれても大概邪魔なだけ。   きっと本当に必要な人は「その人の周りがなんとなくうまく巡っている」という人で、要するにあげまん、あげちんである。ちょっと宗教的な言い方をすれば、「周囲に善きものをもたらす人間」とかそんなん。別に大げさなことじゃなくて、「その人が入社してから上司が寛容になった」とかそういうことでも全然構わない。   確かにその人が原因かなんて特定できやしないだろうし、組織を発展させるアクションを起こしたわけでもない。だけどもむしろ、そういう瑣末で目につきにくい影響の方が大事よね、と。   そういう人のあり方は、「先天性」とか「雰囲気」とか「オーラ」とかで片付けられることが多いけれど、必ずしもそうとは言い切れないはずだと思う。「その人がその場にいる事によって周囲にどう影響を与えるか」というのは、その人と世界の関わり方を如実に反映するはずで、普通の感覚でも、抑鬱状態の人の周辺ではいろんな歪みや滞りが発生するとおもうでしょうよ。   そういうのはなにも病状を示している人に限った話ではなく、全ての人がそれぞれ個々の「状態」(例えば眠りは深いか、動くのは楽しいかとか)を生きているわけで、つまり支障なく日常生活を営む人であっても一人一人は異なった世界との向き合い方をしている、ハズ。 それは「存...