ありえないほど腟カンジダ

「会いたくて会いたくて震える」という歌を口ずさみながら、彼ら(彼女ら)は一体何を考えているのでしょうか。

遠いあの人のことを想っているのか、あるいは懐かしく美しい(そして恥ずかしい)記憶を胸の奥から引っ張り出しているのか。強者に至っては、3次性を持たない(ハズの)架空の嫁を瞳の奥に映しているもしれませんね。さらに現代社会の実相を考慮するならば、留守番中に惨状を築き上げているであろう(全身フサフサの)子どもたちに思いを馳せる、というのがもっとも可能性が高いでしょうか。

まぁとにかく、それが現実であろうと妄想であろうと、人(獣)姿が浮かぶだけマシというもの。
僕が思うに、彼らは何も考えちゃいないし何も思っていない。ただただ単純に言葉が放り出されているだけ。そう、それはただの空気の震えなのだ(@ババリメデスBC.65~BC.20)。
でもそれは彼らが悪いワケじゃない。悪いのは歌の方だ。

その歌が流行っていると聞いた時、それは毎度のことだろうと思いましたよ。いつものアレだと。でも今は、それに対して特別な意味を発見することもできそうです。これはひょっとしたら何かの始まりではないのか、これは今後の流れを作る第一波として世に登場したのかもしれない、と。

文章を書く事とネーミングする事はとても似ている気がします。どちらも、自分の発想によるびっくりするような跳躍が求められる。規定の路線を通すのではなく可能な限り可能性の極北を選択し続ける。そしてまた、そのリズム・流れにはいささかも不自然な響きがないよう、誰の耳にもすんなりと溶けこんでいくよう紡ぐ。そういう「繋がり」を見つける作業。だから「金閣寺まりも」を考えた細野さんってやっぱり偉大だよ、って言いたいんだろうね。
でもひょっとしたら、「跳躍」はそこまで必要ではないのかもしれない。当たり前の言葉を当たり前に並ばせて、それが他人には吐けない自分の言葉になれば一番素晴らしいのかもしれないしね。

とにかく、件の歌です。全国ネットでバンバン流れ、mixiコミュニティははち切れんばかりに膨らみ、「共感を呼ぶ歌詞」なんていう報道まで登場してるワケだから、いかにテレビ離れが進行する昨今でも「知らない」なんて言わせない。(玉入れ合戦じゃない方の)紅白にも出たんだもの。みんな歌うんだよね?え、歌わない?非国民!!

さて再び。「会いたくて会いたくて震える」。この歌詞にはどんな意味が含まれているのか。もちろん「会いたい、震えちゃうわ」。字義通りにはそうでしょうよ。それが正解ですね。でも、問題はここにある(と思う)。

前述の箇所に含まれる情報、それはとても単純。「シンプル」という表現にはどこか好ましい印象があるし、だからここでは揶揄の気持ちを込めて、つくづく「単純」。

頭の中もこんがらがっているしそれに合わせて文章もひっちらかせるけれど、この歌詞を「単純」とぼくが思わざるをえないのは、込められた情報量云々というよりも聴いた人に引き起こされる心の揺れ、そこに多様性が一切見当たらないという点であります。
最初に書いたことに戻れば、「彼らは何も考えちゃいないし何も感じていない」。なんで?会いたい人がいないの?そうじゃない。だから歌が悪いんだって!

ようやく本題。「昨日営団地下鉄の窓に映った富士山に君を空目して」という歌詞があるとして(あくまであるとして)、その歌詞が連想させるものは何か。もちろん自分の車内経験をそのまま重ね合わせてもいいけれど、それではさすがにリスナーが限られちゃう。もっと極端な例をあげれば、「黒猫拾って、黒猫の絵書いて、貧乏になって、うぅ、お前に託した!」なんて歌詞には誰も自身の経験に沿った感情移入なんてできやしませんね。妄想以外では。
でもなぜだか皆さん、「感動した!」って、しょっぱい水滴を地面に落とし続けるのよね。もちろん引く人は、どんどん引き引きどーん引きですけど。

本当は皆さん薄々感づいていると思うけれど、共感する、感情移入するという心の働きに関しては、自分が実際に経験したかどうかという点はそれほど重要ではない。いや、それは違うか。共感が起こるためには、自分の経験にアクセスさせ勘違いさせるぐらい緻密な「具体性」が必要ということですね。多分。
だから、細部まで細かく書いてあれば、自分の人生とはかけ離れた記述に対してもそれとは別種の経験を駆使して(あるいは経験とはまるで関係なく本能によって)共感「してみせる」ワケだと。うん、人間ってやっぱり勘違いで出来てるんだ。

さてさてもう一度。ですんで、「会いたくて会いたくて震える」(だっけ?)なんて歌詞には、どこまで詳しく探査しようが具体性の欠片も見つかりませんね。せめて「私の震えは8ビート」とか書いてくれれば良かったのにね。

でもぼくはこのこと自体、要するにひどく抽象的な歌詞が書かれること自体が新鮮って思ってるわけじゃない。抽象的な歌詞だったら昔の方がずっと多かったはず。どちらかというと、提供曲を歌う人よりも自分の歌詞を歌う人(シンガーソングライターとかバンドのボーカル)が増えてから歌詞の具体性はぐっと高まってると思う。
それに関してはぼくはバランスの問題だと思ってるから、どちらがいい悪いじゃないのだけど、むしろ、妙にねっとりとした、聴く人を蜘蛛の糸で絡め取っていくような、聴く人に過重な労力を割かせるような、そういう細部を書いた歌詞は苦手ですよ、やっぱり。そういう歌って、一時期めちゃくちゃ増えてたもの。

それに、歌詞の本質はやっぱり抽象性よ。ぼくはそう思う。詳しく説明するんじゃなくて、意味深にさらっと流させる。引っかからせておく。「時を飛び越えておいで、世界の外で会おうよ」とか(御大ofホソノ)。

だから、歌詞の抽象性が回復してきていること自体は全然構わない、むしろ歓迎でしようね。

問題は(長い…)、その抽象性を担っている言葉に、独自性というか自分が作った痕跡というか、もちろんそれはあったらあったで困るんだけどそうじゃなくて、まるで標語を並べただけっていうか、つまり人間的な表情がまるで無いことが問題なんですよ。それさ、何がこもってるの?っていうか。無機的な言葉を熱情にのせて叫ぶって斬新、っていうか。
  逆に言えば、そうやって抽象性を保ちながら自分の表現をすることができないがゆえ、若いミュージシャンたちは説明過多になるんだとも言えますね。

でも、それは多分要請されたんですよ。自分に何かを突き立てて来る歌はもう勘弁なんだと。疲れるんだと。だから、自分に訴えかけて来ないカジュアルな歌、そういうものが求められているんですね。

そうそう、「突き立てる、訴えかける」と聞いて何か思い浮かびませんか?Yes、ワ○ンピースですね。この間ニュースでみたんだけどね、ワ○ピースを読んでるのってほとんどが大人なんだって。西野カナ世代とワ○ンピース世代って見事にミスマッチしてるんです。多分今の若い人って、駆り立てられる興奮とか、そういうのに快感を感じないんじゃないか。むしろそこに発生する心の圧迫が息苦しい。でもね、それすっごい分かるよ。そういう興奮ってスグに冷めちゃうんだから。本当の気持ちよさは「静か」なんだって、片山先生が何遍も何遍も。

これ、結構すげぇいね。真剣に研究したら面白そう。

でも、だからこそ、若い人たちにはもっと別の優れたコンテンツを体験して欲しいって思いますね。せめてセガサターンがあれば、「ナイツ」とか「パンツァードラグーン」とか良いゲームがたくさんあるのになぁ。

えーと、オチですか?そうだな…。「会いたくて」じゃなくて「会いたかったー、イェイ!」にすれば良かったんじゃないかな?

ちえちゃん、今度いっぱい音楽聴こうね。つかれたー!

追記:ごく僅かにいる、書くと読んでくれる人、ありがとうございます。読んでくれる人がいなかったら、幾ら暇なぼくでも書かないもん。

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