わたしを読む(視る)
ずいぶん酷いし説明不足だけど、誰か読んでくれるかもしれないし自分のためにも。レポート。あとでもうちょいちゃんと書きたい。K先生をはじめ、演習のメンバーの方々、ありがとうございました。というか、すいませんでした。
生物学上の性別や社会的なジェンダーという意味での「男」「女」についてはひとまず措いてみようと思う。セクシャルマイノリティという存在が「総合された」「統一された」性への危機感や違和感を持つ人々である以上、つまり彼・彼女らが自分には一つの確定的な性別がある(もし私が「女」であれば同時に「男」ではありえない)という前提の元で社会的・身体的齟齬に苦しむ存在である以上、個人の中で同時に、または交替しながら存在する「オトコ」「オンナ」という性的な要素はあまり言及されることがない。
「この世界には二つの性しかない」というのは、少なくとも現在のところは厳然たる事実である。たとえセクシャルマイノリティという彼・彼女らがジェンダー・性別をトランスしようと、その結果どちらかの性に自分のアイデンティティを収めるのだ。しかし、もう少し奥の方まで、眼に見えないところまで自分の感覚を伸ばしてみたい。そこには確かに、二つには割り切れない混沌とした「性」が共存しているように感じる。
印象的だった、というよりも後から思うところがあったのだが、授業中に「自分や自分の周りの女の子は暴力的な男性に惹かれる」といった内容の発言があった。「暴力的」(確かにこの言葉だったと思う)という表現が具体的にどのようなニュアンスを帯びたものなのかは不明だが、おそらくそれは世間一般に言う「男らしい」というイメージに近いものがあるのだろう。音楽家に細野晴臣という人物がいる。日本のロック・ポップミュージックの礎を築いてきた人間であり、また現在でも第一線でバリバリ活躍している人であり私は彼の大ファンであるが(そのような一群の人々は「細野フリーク」と呼ばれる)、もちろんここではその話はしない。私が彼を見ていて思いを及ばすのは、彼と女性たちとの不可思議な関係性についてである。
細野の周りには女性が多く集まる。もちろん音楽仲間がその大多数であるし、男性のミュージシャンとも広い交友関係を持つ。しかし、彼と女性たちとの交流を見ていると、私はそこに「通じ合い」というか「共鳴」というかそういう表現を連想せずにはいられない。そのくせ、彼はけっして一般的な意味で「モテる」男ではないのだ。むしろ、彼を(多分)慕う多くの女性たちは、その精神的な接触に安心し、激しい熱情といったものとはまるで切り離されているように見える。
「共感」と言うと、まるで女性の特権のようにみなされている。個人的な話をすれば、私もそのような「共感」を男性に対して実感したことがない。もちろんそれはかなり限られた経験になるが、あるとすれば女性と、という他ない。というか、大抵の男はそうなのじゃないかと思う。そういう意味では、「男と女は分かり合えない」かもしれないが「男と男はもっと分かり合えない」。
「暴力的な男性に惹かれる」こととつなげて考えてみよう。「オトコとオンナは分かり合えない」からこそ惹かれる。性的な関係につながる。あるいはここまでは一般的な通説通りかもしれない。もう少し。「オトコとオトコはもっと分かり合えない」からこそ惹かれる。動物界には同性愛がとても多く、そのほとんどがゲイであることが報告されているが、それははもしかしたら「オトコ×オトコ」間の圧倒的断絶にそそられたものかもしれない。「オンナ×オンナ」の関係を考えると、これは穏やかな精神的・身体的交歓を求めたもので、性的な激しさは要求されていないという風にも解釈できる。そうなると、これは自然界では見えにくい。複雑なのは「男性=オトコ」「女性=オンナ」という構図は一致しておらず、授業中に何度も指摘されたように個人の中でも重複したり揺らいだりするので、そこには多様な関係性が成立する。また一つの関係が永続して同じ関係性を有するわけでもない。
最初まで戻ってみる。これで統合された性ではない「オトコ」「オンナ」という性的な要素も極めて重要な意味を持つことが見えてくる。たとえ私がセクシャルマイノリティではないとしても、私の中の「オンナ」は必然的にセクシャルマイノリティとしての関係性を生み出すことになる。私は私の中での一部分だけでなく、社会的にも「オンナ」になる。全ての人間は「セクシャルマイノリティでありうる」のではなく、すでに「セクシャルマイノリティとして扱われている」。だから細野は、豊富な「オンナ」によって一般的な意味では「モテない」。ずいぶんと単純な説明になってしまうし、実際そこにはもっと複雑な要素が存在する(例えば、ではなぜ「オトコ」は「オンナ」を欲望するのか。「オトコ」は「オトコ」を欲望していればいいじゃないか)と思うが、一側面の仮説としてはこうなる。
「オンナ」についてもう少し考えてみたい。まず「オンナは身体的」「オンナは求心的」という前提を立てておこう。また、「オンナは自分を外から視る」ということも。自分がセクシャルマイノリティであると自覚する瞬間、それは私には想像できないが、自分の中に「オンナ」を発見するとき、そのとき私は自分のことをずいぶんと「視ている」。視ていなければ私は「オンナ」を自覚できない。また同時に、それは「オンナ」であるから視ることができるとも言える。どちらが先かは分からないが、「オンナ」であるから視ることができて、視ることができるから「オンナ」に気づける。自分の中のセクシャリティの多様さ、揺らぎ、その自覚に必要なのはまずもって「オンナ」的な要素なのであって、言い換えれば、セクシャリティの垣根を揺るがすのはそもそも「オンナ」なのだとも言える。セクシャルマイノリティは「オンナ」が生み出しているのだ、と。そして、男性が「オンナ」を獲得すればするほど(男性が視られる存在となる)そこにはセクシャリティの多様さが現出することになるし、もちろん、女性が「オンナ」を強めることよって自分の中の「オトコ」を見出すこともあるはずである。実際にセクシャルマイノリティとして性別に違和を覚えるかどうかは別として、そこには必ず何かしらの自覚が伴うはずなのである。
クラウス・ゲーハートの写真が求めているものはなんだったか。激しい欲望ではなく、しずかな歓びではなかったか。私たちは確実に「オンナ」になってきている。私たちは身体に戻ってきている。外部に何かを求めるのはもう限界だと思っている。内側の充足を求めている。性的な関係にならなければ子孫は残らないかもしれないが、でも人口なんか十分に足りているじゃないか。
セクシャルマイノリティは苦しいのかもしれない。だけど私は断言してもいい。気付かないこと、無自覚であることの不快さはその比じゃない。「オンナ」は苦しいかもしれないが「オトコ」は不快である。苦しみはどうにかなる。共感する力も生む。願わくば、私は気持よく苦しむ人と一緒にいたい。
バービー誕生日おめでとうございました。
返信削除また、携帯が水没し、アドレスが消えてしまい、また今年もこちらに。と言っても遅すぎました。
いつもいつもありがとうございます。たまに来て頂いてるとしたらすっごく嬉しいです。
返信削除携帯は…水没させるためのものですもんね。あとでメール送っておきます。
身体に気をつけて過ごしてください。