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毎日ちがう ①

 古本屋に行きました。野口さんの奥様(近衛文麿の長女)の書いた本があったので買いました。友人は、その前に近くの定食屋で、豚と野菜の味噌炒めみたいなものを食べました。わたしはマンゴージュースを飲みました。しばし歩き、居酒屋に入り、バイキング(飲み物別)を選択したため、たくさんの料理がテーブルの上に並べられました。友人は先の定食屋で十分に食べていたため、あまり箸が進まず、好きに注文を続けるわたしは、例によって軽いものよりも重いものの方が満腹関係なく食べ続けることができる不健全さでもって、3分の1以上残した場合の罰金を避けるべく、食事を続けていたのでした。いや実際おいしい。  と、いう探検(?)探索(?)はときたま行われている、というかわれわれはおこなっています。この「居酒屋」というのも、実はアパホテル内にある、食堂やラウンジとしても機能している店舗であって、入店した時点ですっかり酒が進んでいた隣の一団、これはどうみてもサラリーマンたちの飲み会でしたが、彼らの、要約すると「うぇーい!」としかなりようのない会話だったり、端的に飲みっぽい諸々のおかげで、わたしたちはそこをすっかり完全に居酒屋として認識していたわけですが、彼らがはけた後、正確には三本締めだかなんだかで会を閉め、半数ほどは席を立ち半数ほどはそのまま腰を上げず縮小された会を続け、最後はもうあまりの酩酊具合に立つことすらままならなくなった「部長」を周りの数人で介抱しつつ外へ搬出、去り際に「いやぁ、こんな事はじめてですよぉ(笑)」と店員さんに「部長」をかばうためなのか何なのかのわからないエクスキューズを述べ店をあとにして後、より正確には、彼らが去り、大所帯に対応するため固めてあったテーブルを店員が通常の配置に戻して後、店の雰囲気は大分変わっていました。    そのアパホテルは駅のすぐ横という立地で、居酒屋店舗は、おそらくそのワンフロアをほぼまるまる占有しており、ホテルそのものの駅(線路)と並行した細長い形状をそのまま引き受けたかたちです。窓は、左右の長い両辺の片方に大きく取られ、もう片方は一面壁です。線路と並行した長方形という形状ですから、すべての窓が駅側にあるか駅の反対側にあるかということで、この店舗の窓は駅側に取られ、店舗内部の客から駅のプラットフォームが大きく大きく、さながら映画のスクリーンのように見...
 肩コリとかマジちょーして欲しい。 腰痛とかもっと攻めてきていいし。風邪とか毎シーズンガンガンひいてきたいよね、とか。 「あー、あなた本質的にはからだ過敏ですからね」という野口整体的指摘も、「アナ雪」的ありのまま批判、「ありのままなんかない!本当の自分なんていない!本質なんてない!」といった合唱に飲み込まれ、 (ところで、少し前サッカー日本代表の面々が口にしていた「自分たちのサッカー」も大変な非難を浴びていましたが、みんながそう言うからふーんそうなんだそうなんだそうだよねエヘヘ「自分たちのサッカー禁止!」と息巻くひとらは、選手としてあのチームに入っていればまず間違いなく「自分たちのサッカーが…」というコメントを残していたことでしょう。という話はよく友人とする)  ちてきな人々にトンデモ扱いされているような気もしないでもない。    「大きな物語の喪失」というのは、ポストモダン思想におけるもう語られ飽きた概念ではなく、何かしら強い価値観を持った態度?生き方?が流行を示すと常に攻撃対象となり(主にネット上で)砲撃を浴びていることから、今の日本にそっくりそのまま見受けられる事態ではないのか。 「出る杭は打たれる」という言葉のほうがよりしっくりくるのは、日本に元来存在するポストモダン性のなせるわざか…。    つー話はどうでもいいとして、ここ数年来自分がよく考える「集中と発散」、これは価値観というより感覚の問題としてあるのだけど、それだって人間の生命活動を、まとめる力と散らばる力の平衡を中心に捉える、あくまで捉えるっつーわけで、それは人間観のひとつだから別に合ってるとか間違ってるとかでなし、というかそもそも正しいとか間違いとかなくて、西洋医学的にからだを見てそれが有効に働く場面が確実にあり、逆に東洋医学的に見たほうが妥当だという場合もあり、という話でしかない。  なにかを選んだつもりはいないが確かに自分はいろいろと選んできたらしいので、それを20歳半ばまでに価値観を確立うんぬん、というTVで得た知識と照らし合わせると、そうかそうか自分はそうやって人格形成をしてきたのだなと納得。  自分は確かになにかに依っている。独尊的自由ではないが、自分の依るものをよく知るということが、自分を知るということであるハズなので、自分はそれを選ばざるを得なかった自分の「...

5月の課題(5月20日〆切) テーマ:わたしの近所

  わたしの家の近くには、BN公園という公園があります。公園の隣には女子高があって、いつも、友だちと過ごす時間をなごり惜しむ生徒たちが、「ねーねー、ビーエヌいこーよ」と、もう少しだけ一緒にいたいという気持ちで、誰彼ともなく誘い合って、ただこの公園で時間を過ごしています。  少し離れた場所には、国立大学の附属小学校もありますが、こちらの生徒たちは、まだ、友だちとさよならするときの寂しさ、後ろ髪を引かれる思い、また一緒にいることの居心地の悪さからくる嫌悪感、といった感情を持ちあわせておらず、ただ帰路となっている公園の途中や出口で、「じゃーねー」とだけ言って、とてもさっぱりと別れるのです。この子たちがそうした感情の機微に目覚めるのは、もう少し後のことでしょう。  さて、公園はもちろん公営の場所であり(県、市、区、どこの管轄なのでしょうか?)、いくら女子高生の利用が多いといっても、それに合わせた設備投資などできるわけはなく、誰も使わないようなブランコやジャングルジムなどの遊具が置かれ、利用目的ごと、例えばサッカーがしやすいように芝生が敷かれている、バーベキュー設備が置かれている、花見に適した桜の配置や通路脇のスペース、ジョギングコース、など、親切にブロック分けされているのですが、これはほとんど無意味で、利用者たちは空いているところから順に場所を埋めていって、結局はどんな場所でも出来る活動(アイスを食べるとか)をするだけなのです。言ってみれば、普通の公園のありさまです。  唯一、それがそれとして利用されているジョギングコースは、平日の昼はただ沼(この公園の真ん中には沼があります。というか、この公園は沼を中心に成り立っているのです)をぐるりと一周する通路なのですが、足にやさしいよう作られた路面には、夜になると多くのランナーたちが集まってきて(あきらかに、走る距離よりこの公園まで来る道のりのほうが長いんじゃねーのーといった人とか、夜なのにサングラスとか)、みんなで一緒に沼の周りをぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる回っています。  女子高生がよく利用するという特性上、よこしまな目的を持って公園にやってくる者も中にはいて、行政(県、市、区?)としては、そこだけはきっちりと対策をしようと、民間の警備会社、なかでも一般には知られていない、もちろんふつうの家庭で...