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沼やスケートリンク

 沼での作業は何でもいい。あるいは目的は意識されていなくてもいい。とり憑かれている事だけが条件だ。何にせよここは沈む。作業が失敗したから沈む。自分は賢明な作業員だから、臨機応変に対応できるはずと、戦略的に振る舞えるはず、と得意げに作業場を移り作業を再開する。この程度の代わり映えのしない方針転換を、理性の働き、もう少し言えば苦境を見渡すことのできる視野の存在証明だとばかりに誇って。しかしどちらにせよ沈むのだ。少し離れた所で同じ事を繰り返して沈むのだ。  戦略的撤退を甘受できる事、どつぼへハマり込む危険を意識する事、そこへまで意識を広げながらとられた方策の貧しさは、より一層傷を深くする。「撤退か継続か」。そのオールオアナッシングの目線の「キマり方」も、貧しさの証明か。一方で、「分かっていながら沈む」という道化の振る舞いへの転化、つまり事態の深刻さを誤魔化してゆくことは、深い傷を避ける為の身の処し方だとも言える。「自分で選んだことだから」は、引くに引けない・手放せない自分の体勢に甘えをゆるす自己正当化の、常套手段だろう。  書くことは沈むことじゃない。だから書こうというのだ。沈む元凶をすっぽり手の内に実感するような、ある意味目の醒めた状況にいる間、元凶を忌々しく感じながら少しだけ冷静でいて、しかし向こうから手の内に潜り込んでくるようにして掴まれたそれの捕まえ方を自分は知らないから、少しすれば手は空っぽだし、またいそいそと沼に沈みにいくのだし。だから自分は何度も元凶を知ったし、何度も忘れたし、また何度も知った。「ずっと沼の上にいればもう少し楽だったかもね」と思いもするが、「休憩が無い分すぐに諦められたんじゃない?」とも言える。ここでも甘えとして息継ぎの場が用意されていることが、ずっと溺れ続けていられる要因となる。 自分に不利な証言は、ことが自身だけに由来する恥なのではなく、誰のうちにも潜む心身の仕組みに根を持つという認識が可能にするはずで、否定ではなく「ある」という事実を認めた先に「対処」の方策が初めて立つものだが、沼の上にいてはどうしても頭が働かないのだ。気づく事は出来れど、力のある思考には安定した足場が必要なのだから。  なぜ沈むのか。呪われているから沈むだと冷静になって考える。すっかり作業に没頭した意識には、呪いなどという非科...