ぜんぶ青い。
テニスのフレンチオープン特有のコールが(正確にはフランスで開かれる大会おそらく全てにおいて同様のコールだが)ある特有の「時間」を思い起こさせた。
「かーぼんたーじゅ」というような音に、そのコールは聞こえる。
「夕方」について書かなくてはならない。「夕方」は、意識/時間/自己といった主題を(思弁ではなく)現実の側から、目の前にでも前頭葉にでも思考の中心にでも叩きつけてくれるだろう。ブルーアワーと呼ばれているらしい世界をまとめて青に染め上げるあの時間帯では、現実の「たがが緩む」といつも思い続けて、しかしそれは実際どのような意味だったか。
かつて友人と赤羽界隈を気ままにほっつき歩いていたとき、進行方向右手に現れた神社は確かに、シチュエーションとして日常から逸脱していたから、「鳥居をくぐって出てきたら異世界」だとか「入るときと出るときで狛犬の顔の向きが変わった」だとか冗談を言ったわけだが、今思えば、それよりもずっと現実の確かさを欠いていたのは、東武東上線に乗り込んで、車窓からすべてが青かった世界を、存分に吸い込みそうになったときだろう。呼吸の浅さが現実感の希薄さを生む、とは敬愛する整体師の知見であるが、なるほど地に足のつかない、しかしそれでもウキウキした気分を味わっていた。実際自分は「夢の中にいるみたい」と言ったのだ。
ここではないどこかへ行きたい、という感覚はたいていいつも持っていて、それは昔からそうだったはずだ。しかし今では、その感覚を「現在」と「未来」へ単純に分けること、つまり今現在の束縛から見果てぬ自由へ飛翔するというイメージへ落とし込むことは避けられ、また、感覚に応えるのはもはや具体的な行為だけでは無く、夕方に立ち現れる現実感の減衰した世界だったりする。昔のことを思えば、感覚からの要求に素直に応えすぎて、どころか、視野の狭いあるいはチャンネルの少ない意識の在りようは、要求を自分の内に巡らせる内に増幅させてしまうありさまで、出力は常に暴走行為という形をとって、わたしは随分からだを引っ越しさせた。今では少なくとも、ここからわたしが足を動かして脱出しなくても、わたしの体を日常訪れることのない場所へ運ばなくても、行ったことのない場所に行けるのだと知っている。「今」も「ここ」も「どこか」も、客観的な時間や地理ではなく、意味の世界へ変換される回路を得た。行動は「出奔」という一事に表現される他ないが、意味への変換は、多面的な解釈が持続の禁止とエネルギーの分散をもたらしてくれる。あるいは行動力への回路は抑圧される事になったのかもしれないが、とにかく、ただ単に経験が臆病にさせたというのでは済まない一応の成熟を獲得したと言えなくもない。もちろん、それはほとんど誰もが通る道だ。
だから今ではその感覚(というより欲求か)はわたしにとって愛おしい、あるいは育まれるべき物となって、年を重ねて日常の磁力が増すといわれる中で、いまや声の聴き取られ方によって無駄な浪費を逃れ充分な余力を残した欲求は、いつかようやく現実の力を携えた人を、「本当に」別のところへ連れて行ってくれるはずだと期待して、わたしは今にどうにか居着くことができるのだ。
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