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Farmgirl

自分が大切にしたいことを、一言にして表してみようと考えたときに、これはなかなか難しかった。 頭が働いてくれるのも大事だし、身体が楽になってくれるのも大事だ。 とにかく、ひと言ではまとまりそうになかったのです。 しかし、はたと思いついた表現が、「自由であること」でした。 これならば、広範囲の状態に渡って感覚的に接合が可能だと思いました。 具体的には何も書かないので、なんのことやらまったく判らないと思いますが、僕の中では一本のフラッグが立ったような気がするのです。 「自由であること」。それには通俗的に、それの裏っ返しとして「責任」が伴うなんて言います。そしてそれは、往々にしてネガティブな事として語られるのです。「責任を背負わなくちゃいけない」なんて。「社会的責任は重い」なんて。 だけど、僕は思うのだけど、「自由であることによって責任を立ち上げることができる」のだと思うのです。責任が無かったらなにも始めることはできない。自分で立つこともできない。 責任を持つということは実にポジティブな事なのだ、と僕は思います。 責任がなかったら、自分の人生を楽しむことなんてできやしない、と思う。 自由であれば責任を持つことができる。自由の代わりに責任を負う、というトレードオフではないのです。そういう自由は、僕の考える自由とは違う。僕の考える自由は、もっと自発的で内発的なものです。ある日、使いきれないほどの金銭を与えられて、自由に使ってください、という自由とは違う。 それから、いわゆる「自由人」の自由とも全然違う。 どんな人でも、どんな境遇でも、自由になることはできる。なんだか、怪しい精神論を語っているようにも見えますが…。 自由ということは、おそろしく誤解を招くのですが、僕は最大限にそれを尊重したいと思っています。

Unsung Song

僕は、僕という個人内部にいろいろな問題を抱え込んでいる人間なので、他人のことを心配したり世の中のことを憂いたりする余力というものはほとんど残されていません。自分のことで精一杯なのだと言ってもいい。それに、「世界を救え」とか、そういう特命を受けているわけでもありません。 しかし、そうは言っても、僕が僕の内部に深く垂鉛を降ろしていったときに、どうしても僕が存在する理由とか、そういったものを尋ねたくなる。そして、そういったものに応えてくれる(或いは物語を与えてくれる)のは、僕自身だけではなくて周りの世界だったり社会だったりします。 それは、僕という個人が生きている理由のそもそもは、僕が生まれる前の世界が有しているからです。僕が生まれたのは両親がいるからであり、その両親にはまた両親がいて、それに先立っては多くの先人がいて、彼らがこの社会というものを形成してきたのであって…。僕という個人は、後からこの、今ある世界に投げ込まれたのであって、僕は世界に対して立ち遅れている。だから、僕という存在を深く突き詰めていったときに、その理由や起源を辿りたくなったら、僕を覆っている世界や社会に目を向けるしかないわけです。それは「血」だったり「星」だったりします。 僕の起源はまわりにある。さらに言えば、僕の今ある姿は、因果的にその産み出す土壌となった世界や社会と結び付けられていると言ってもいいです。僕自身をほどいてみようとしたら、必然的にそのまわりも視野に納めなければならない。僕とまわりの世界や社会は、そもそも不可分だということなのかもしれません。 僕は、身体といったものに焦点を当てるのが好きで、それは非常に個体レヴェルの思考対象なのですが、それが個人的に深く沈潜していったときに、僕という個体を通して世界を見通さなければならないという気がします。 それは、「社会学的な方法論を身につけろ」とか「科学的なデータを集めろ」といったことではなくて、自分の深部を通して世界を観て、そこから汲み取ったものを自分の言葉で語れということなのです。僕は、批評法とか分析法とかの知識を得ることを大切だとは思わないのですが、自分の底深くに潜っていくような、そういう鍛錬は大事なのではないかと思っています。 あまたの手法によって、多くの人が社会を分析したりしてみせていますが、僕は自分の底を経由した言説でなけ...

ばなな

引用です。 じぶんより7つほど若い人のお葬式に出ました。 身体の変調に気付いて、 入院してから10日も経たないで亡くなったので、 参列していた人たちも、 実感の伴いにくい悲しみを抱えて、集っていました。 謙虚で穏やかな人柄だった故人の写真が、 こっちを見ていました。 「気のいいやつって、さっぱりしすぎてるんだ」と、 まず、ぼくは思ってしまいました。 俺なら、もっと粘ったり足掻いたりじたばたする。 だめだよ。そんなにあっさりと生きてることを譲っちゃ。 先輩ぶって、そんなことも思ったのでした。 しかし、そこに、ふっと、 「おまえ、らくになったんだなぁ」という気持ちが、 混じったことに、じぶんで驚いたのです。 この世から、早めにさよならすることを、 悲しんだり残念がったりしているだけじゃなく、 「らくになって、よかったのかもしれない」と、 ちょっとでも思ったことに、どきっとしたのです。 それは、おそらく、人並み以上に丈夫なじぶんのなかに、 「らくになってしまいたい」というこころが、 微量でも存在しているということなのでしょう。 子どもっぽい競争に夢中になれたり、 先を見なくても走っていればいいことがあると、 信じられるような時代だったら、 先に逝く人に向って「ちょっといいな」なんてこと、 思えるはずがないでしょう。 ぼくがこれまで経験してきたなかで、 いまって、いちばん生きるのが難しい時代だと思います。 ここまで「希望」を語りにくい時代だとは、 思いたくなかったのですが、どうやら、そうみたい。 ぼくは、それを、実は無意識に感じていたんだなぁ、と。 そう感じているじぶんと、目が合ってしまったのでした。 「希望」なんてニンジンがぶら下がってなくたって、 人間、あんがい強いからたのしくも生きていられます。 でも、気やすめでない「希望」ってものが、 ほんとは探せばあるよってことを、言ってみたいなぁ。 希望のかけらでも、希望のくずでも、うれしいんでね。 今日も「ほぼ日」に来てくれて、ありがとうございます。 アントニオ猪木じゃないけど、元気があるって大事だぞー。 以上、ほぼ日刊イトイ新聞「今日のダーリン」9月9日より http://www.1101.com/home.html 僕は、生まれ...