Unsung Song
僕は、僕という個人内部にいろいろな問題を抱え込んでいる人間なので、他人のことを心配したり世の中のことを憂いたりする余力というものはほとんど残されていません。自分のことで精一杯なのだと言ってもいい。それに、「世界を救え」とか、そういう特命を受けているわけでもありません。
しかし、そうは言っても、僕が僕の内部に深く垂鉛を降ろしていったときに、どうしても僕が存在する理由とか、そういったものを尋ねたくなる。そして、そういったものに応えてくれる(或いは物語を与えてくれる)のは、僕自身だけではなくて周りの世界だったり社会だったりします。
それは、僕という個人が生きている理由のそもそもは、僕が生まれる前の世界が有しているからです。僕が生まれたのは両親がいるからであり、その両親にはまた両親がいて、それに先立っては多くの先人がいて、彼らがこの社会というものを形成してきたのであって…。僕という個人は、後からこの、今ある世界に投げ込まれたのであって、僕は世界に対して立ち遅れている。だから、僕という存在を深く突き詰めていったときに、その理由や起源を辿りたくなったら、僕を覆っている世界や社会に目を向けるしかないわけです。それは「血」だったり「星」だったりします。
僕の起源はまわりにある。さらに言えば、僕の今ある姿は、因果的にその産み出す土壌となった世界や社会と結び付けられていると言ってもいいです。僕自身をほどいてみようとしたら、必然的にそのまわりも視野に納めなければならない。僕とまわりの世界や社会は、そもそも不可分だということなのかもしれません。
僕は、身体といったものに焦点を当てるのが好きで、それは非常に個体レヴェルの思考対象なのですが、それが個人的に深く沈潜していったときに、僕という個体を通して世界を見通さなければならないという気がします。
それは、「社会学的な方法論を身につけろ」とか「科学的なデータを集めろ」といったことではなくて、自分の深部を通して世界を観て、そこから汲み取ったものを自分の言葉で語れということなのです。僕は、批評法とか分析法とかの知識を得ることを大切だとは思わないのですが、自分の底深くに潜っていくような、そういう鍛錬は大事なのではないかと思っています。
あまたの手法によって、多くの人が社会を分析したりしてみせていますが、僕は自分の底を経由した言説でなければ、あまり聴き入る態勢に入れません。自身の内部を通した知恵は、ある種個人的でありながら、なぜだか「うん、うん」と共感してしまうのです。
どんな分野にしてもそうです。いかにも個人的な問題を取り扱う領域(例えば精神医療))だとしても、本当に深く入り込んだならばまわりの世界や社会まで裾野の広げなくてはならない。敏感な人は、そうやって全体の動向にも関心を払います。そういう人の言葉だったら、どうしたって聞いてしまいます。
人の身体を機械論的に観るのは止めて、ホリスティックに捉えようという機運が高まっています。それならば、それと不可分な(というかそれを形成する)世界や社会だってホリスティックに捉えなければならないのではないか、と。いや、思いついたから言ってみただけなんですけどね。具体的に「ホリスティックな社会観」なんて構想できないし、僕の任じゃないし。ただ、理屈としてはそうなる。
「人間は結局自分のことしか関心無い」と言いますが、それって実際は「世界に関心がある」ということと同義なんですよね。
う~ん、当たり前のことを書いてしまいましたか?どうもすみませんでした。本当はもっと「発見」だったのですが、書いたら当たり前の内容になってしまいました。難しいですね。
しかし、そうは言っても、僕が僕の内部に深く垂鉛を降ろしていったときに、どうしても僕が存在する理由とか、そういったものを尋ねたくなる。そして、そういったものに応えてくれる(或いは物語を与えてくれる)のは、僕自身だけではなくて周りの世界だったり社会だったりします。
それは、僕という個人が生きている理由のそもそもは、僕が生まれる前の世界が有しているからです。僕が生まれたのは両親がいるからであり、その両親にはまた両親がいて、それに先立っては多くの先人がいて、彼らがこの社会というものを形成してきたのであって…。僕という個人は、後からこの、今ある世界に投げ込まれたのであって、僕は世界に対して立ち遅れている。だから、僕という存在を深く突き詰めていったときに、その理由や起源を辿りたくなったら、僕を覆っている世界や社会に目を向けるしかないわけです。それは「血」だったり「星」だったりします。
僕の起源はまわりにある。さらに言えば、僕の今ある姿は、因果的にその産み出す土壌となった世界や社会と結び付けられていると言ってもいいです。僕自身をほどいてみようとしたら、必然的にそのまわりも視野に納めなければならない。僕とまわりの世界や社会は、そもそも不可分だということなのかもしれません。
僕は、身体といったものに焦点を当てるのが好きで、それは非常に個体レヴェルの思考対象なのですが、それが個人的に深く沈潜していったときに、僕という個体を通して世界を見通さなければならないという気がします。
それは、「社会学的な方法論を身につけろ」とか「科学的なデータを集めろ」といったことではなくて、自分の深部を通して世界を観て、そこから汲み取ったものを自分の言葉で語れということなのです。僕は、批評法とか分析法とかの知識を得ることを大切だとは思わないのですが、自分の底深くに潜っていくような、そういう鍛錬は大事なのではないかと思っています。
あまたの手法によって、多くの人が社会を分析したりしてみせていますが、僕は自分の底を経由した言説でなければ、あまり聴き入る態勢に入れません。自身の内部を通した知恵は、ある種個人的でありながら、なぜだか「うん、うん」と共感してしまうのです。
どんな分野にしてもそうです。いかにも個人的な問題を取り扱う領域(例えば精神医療))だとしても、本当に深く入り込んだならばまわりの世界や社会まで裾野の広げなくてはならない。敏感な人は、そうやって全体の動向にも関心を払います。そういう人の言葉だったら、どうしたって聞いてしまいます。
人の身体を機械論的に観るのは止めて、ホリスティックに捉えようという機運が高まっています。それならば、それと不可分な(というかそれを形成する)世界や社会だってホリスティックに捉えなければならないのではないか、と。いや、思いついたから言ってみただけなんですけどね。具体的に「ホリスティックな社会観」なんて構想できないし、僕の任じゃないし。ただ、理屈としてはそうなる。
「人間は結局自分のことしか関心無い」と言いますが、それって実際は「世界に関心がある」ということと同義なんですよね。
う~ん、当たり前のことを書いてしまいましたか?どうもすみませんでした。本当はもっと「発見」だったのですが、書いたら当たり前の内容になってしまいました。難しいですね。
なるほど。Baba Riさんの文章を読んでいて思ったことは、「あなた」を深く深く考えていて、途中ではっと「わたし」を考えていたことに気づいたり、反対に「わたし」を深く深く考えていて辿りついたその先に「あなた」があったという経験があったなあということでした。
返信削除「あなた」を理解する為に「わたし」を理解することは欠かせないとよく言われます。「あなた」を深く考えているときにすぐ直面するのは、考えるのは「わたし」であり、「わたし」というフィルターを通してしか捉えることができない「あなた」であるという事実です。客観的な世界が存在するのだとしても、永遠に私たちは、主観的認識からの脱却はできない世界に住んでる。そうなると「あなた」を理解しようとしている「わたし」がどんなフィルターなのかを知らないと、ほんまもんの「あなた」を知ることに近づくことができない。なるべく自分勝手に歪めて知るのではなく、ほんまもんの「あなた」を知りたいと思えば思うほど、「わたし」を知らないといかん・・・ということなのだと思います。
・・・ってなんか主旨がずれちゃった。ごみ~ん。
ちえぞうさん、
返信削除なんていうか、僕らは(?)個人主義者だから、あんまり社会問題について考えたりしないたちですが、それでもやっぱり、自分はまわりが(世界が社会が)ないと成立しない。いつか、自分でも自分なりに社会にコミットしないといけないと思うのです。
思うのだけれど、僕らは、知らない人々が成り立たせているこの社会というものを、出来の悪いものだと思いながらも肯定するしかないんだと思います。村上春樹は、『アンダーグラウンド』の経験からそういうことを言っています。市川さんのフィルムは、そういう名もない人々の営みを大切にとらえていました。
それから、他人とつながろうとした時に、むしろ自分の奥深くに相手がいるという感覚、ありますよね。
では。