ばなな

引用です。

じぶんより7つほど若い人のお葬式に出ました。
身体の変調に気付いて、
入院してから10日も経たないで亡くなったので、
参列していた人たちも、
実感の伴いにくい悲しみを抱えて、集っていました。
謙虚で穏やかな人柄だった故人の写真が、
こっちを見ていました。
「気のいいやつって、さっぱりしすぎてるんだ」と、
まず、ぼくは思ってしまいました。
俺なら、もっと粘ったり足掻いたりじたばたする。
だめだよ。そんなにあっさりと生きてることを譲っちゃ。
先輩ぶって、そんなことも思ったのでした。
しかし、そこに、ふっと、
「おまえ、らくになったんだなぁ」という気持ちが、
混じったことに、じぶんで驚いたのです。
この世から、早めにさよならすることを、
悲しんだり残念がったりしているだけじゃなく、
「らくになって、よかったのかもしれない」と、
ちょっとでも思ったことに、どきっとしたのです。
それは、おそらく、人並み以上に丈夫なじぶんのなかに、
「らくになってしまいたい」というこころが、
微量でも存在しているということなのでしょう。

子どもっぽい競争に夢中になれたり、
先を見なくても走っていればいいことがあると、
信じられるような時代だったら、
先に逝く人に向って「ちょっといいな」なんてこと、
思えるはずがないでしょう。
ぼくがこれまで経験してきたなかで、
いまって、いちばん生きるのが難しい時代だと思います。
ここまで「希望」を語りにくい時代だとは、
思いたくなかったのですが、どうやら、そうみたい。
ぼくは、それを、実は無意識に感じていたんだなぁ、と。
そう感じているじぶんと、目が合ってしまったのでした。

「希望」なんてニンジンがぶら下がってなくたって、
人間、あんがい強いからたのしくも生きていられます。
でも、気やすめでない「希望」ってものが、
ほんとは探せばあるよってことを、言ってみたいなぁ。
希望のかけらでも、希望のくずでも、うれしいんでね。
今日も「ほぼ日」に来てくれて、ありがとうございます。
アントニオ猪木じゃないけど、元気があるって大事だぞー。

以上、ほぼ日刊イトイ新聞「今日のダーリン」9月9日より
http://www.1101.com/home.html

僕は、生まれてからたいした時間を生きてきたワケではないので(それから、モノゴゴロついてから全然経っていないので)、時代といえば、容赦なく放り込まれている「今」しか考えられないわけですが(世代論は使えない)、人生の大(?)先輩が言うのだから、「希望が感じられない時代」だということは間違いないのでしょう。僕らはそんな所まで来てしまった。
次は自分が書いたメールを引用します。

目標ということについて少し考えてみました。まずは糸井重里さんのことばから。「じぶんの身体の感覚からしか、想像ってやつも離陸することはできない」
目標というのは想像力の産物ですね。ですから目標だって現在の身体によって規定されるということになる。ところがです、目標に向かってであれ自分自身が変革していくなかで、身体が変わっていった場合、目標の設定者が変化しちゃうのだから目標だって自然とブレて来ちゃう訳です。だから、目標目指して変わってたら目標と全然違う変なところにたどり着いちゃうんですね。思ってた場所と違うケドみたいな。でも、ぼくはそれが面白いんだと思うのです。たどり着きたいと思い描いた場所にピタリと到達できたら、結局、「だから何?」ってなって燃え尽きちゃうだけだと思うんです。それよりかは目標の設定者が常に更新され続け、新しいフェイズを開かれ続ける方が、予想は効かないけど、楽しいはずです。少なくともぼくはそうでした。思い描いてた自分になんか成れるわけなくて、いつの間にか想像もできなかった自分です。今想像できる程度のものにしか成れないのだとしたら、それは想像力(身体)が進歩してないわけで、実際は何も変わってないと思うんです。人間変革は常に想像(目標)を覆すのです!

なにが言いたいのかというと、自分でも収拾が着かないのですが、要するに、「希望だって今の自分の状態が想像して感じるものだ」ということです。
だから、「希望が感じられない」というのは「希望が現在の自分の想像力の範疇には見当たらない」ということです。だったらば、「希望は無い」かどうかは判らない。それは想像力を超えたところにあるかもしれないからです。
僕らにできることは、希望が感じられないからといって捨て鉢になるのではなく、一歩一歩と足を踏み出していって、絶えず自分を更新していき、想像を超えたものと出会うことぐらいだと思うのです。

しかしそれにしても、そういう力って何を土台として生まれるのでしょうね?

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