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11月, 2010の投稿を表示しています

なるだけ早めに旅立ちたい

「史上最悪の四日間」という映画を観てきました。いや、そんな映画ないんですけどね。観てきたというのは本当です。察してください。 ブレーカーが落ちてしまったような、そんな感じをもたらしてくれるワケなんですけど、その中には新味も多々あったれば、「キミ、この前もいたよね」という古参もいました。なのでその古参の話(あるいは既視感)。 困ったことに、人間という生物には精神の不調というものが付き物です。「必要だから存在するのだ」と見栄を切られればそれまでですが、本人が苦しいのだからやっぱり困ったものです。 何かを判断する事ができなくなったり、これからの出来事が不安になったり、とにかくイライラしたりする。それから、何かにつけ思考が悲観的にループする。全てのことが、自分に圧し掛かった重たい厄介ごとに思えてくる。悲観的になると、本当にモノの見え方感じ方が変わってしまいます。 というわけで、今回は悲観との再会でも題材に。 もうキレイなものでした。それはそれは。昔に会ったことがあるから、悲観の描く曲線がなんだか以前に視たことがあるような気がするのです。「ここはこう来て、こっちはこうで、ここで落ちて…あ、やっぱり?」と。なんとなく、すでにわかっている。それから、悲観的じゃないときの認識のあり方も知っているから、それとの乖離が意識される。 だけでも、苦しさは俄然健在なのです。いくら知っているからといって、トレースできるからといって、違う認識の仕方があることを知っていても、苦しいものは苦しい。 それは、思考は自分の意識ではコントロールできないということでしょう。いくらそれが非合理的で生産性のない思考であっても、またそうであることを自分の頭ではわかっていても、それは人間の認識世界を侵食していく。おのずから、勝手に破滅へと向かおうとする。頭ではわかっていても止まらない。繰り返しますが、思考は自分の意識ではコントロールできない。コントロールの埒外にある自律的な運動です。考えるという行為は、まさに「自分が主体的に」行っていると思われがちですが、その文法や定型というのはほとんど「自分の状態に」規定される。それは、自分の意識がウムウムと唸っても介入や操作はできない。 そして、思考というのはむしろ身体に属していると考えていい。だから、身体が変わると考え方も自然と変わってくるというのが僕の...

想像力とかそのへん

実は、タイトル以上のことは何ひとつわかっておりません。わかっていないから書くのだけれど、わからなさにも色々な種類があって、今回のは「分裂しているものをどう統合づけたらよいものか」わからないのです。 ①想像力が(現行の)身体状況に規定されるということは何回か書いていますし、変化が身体まで巻き込んだものになるならば、かつての想像は結局新しく上書きされるということも繰り返してきました。これは「想像したってどうせ想像通りにはならないよ」という諌めと、「想像を超えたものへ変化していきましょう」というアナウンスでした。要するに想像の力というものをあまり評価していない。 ②しかし、「念ずれば現ず」という言葉がある通り、強く想念した想いは叶ってしまうということも現実として御座います(多分、きっと)。また、「自分はしょせんこの程度だろう」と決め込んでいると、本当にその程度でとどまってしまうという弊害も御座います。これは想像の求心力なるものを讃える事例であります。 想像力は果たして、①のようにしょせん現実から常に立ち遅れる頭の戯事に過ぎないのか、それとも②のように現実を教化せしめるような理力を有するのか。 これから先は、今日は疲れたのでまた今度。 あ、いわゆる「イメトレ」は、やり方によっては有効だろうし、やり方によってはまったく無駄だと思います。多分ほとんどの人は、無駄なイメトレに労力を注いでいるかと…。 では。

明日のことは忘れました

みなさん、中国は変な国だと騒ぎ立てておりますが、どうなんでしょう。 思うのですが、周りのみんながそうだと思っていたら、自分だってそうだと思いますよね。つまり、周囲の空気に同調しますよね。中国で、みんな日本が悪いって言ってるんだったら、それにぞろぞろと賛同していくことはちっとも”変”ではなくて、ごくまっとうな世論の形成のされ方ではないでしょうか。そういう自己増殖的な大同帯に、外側から”変”だと言っても聞き入れるわけがないのです。 ”変”というのは、みんなが当たり前だと盲目的に信じていることを外側から眺めたときの視点ではないでしょうか。日本だって戦時中は「八紘一宇」とか言ってて、内側からは誰も(あまり)変だって言わなかったのだから、十分に”変”だったのでしょう。今から見ればみんなが”変”だったと言います。でも、内側で空気感染しているときには”変”だなんて思わない。外側から見てみると”変”だと思う。 だから、日本だってご立派な”変”な国です。死刑を量刑として当たり前だと思って残している稀有な国なんですから。それについてあんまり”変”だと思っていない。「犯行の残虐性を考えると死刑が妥当」なんて、完全に死刑を刑罰体系の中で意義付けしている。「この犯行は死刑に処すべきか否か犯行の残忍性を思案して」なんて言っても、死刑そのものは疑わない。みんな当たり前だと思っているから。みんながそう思っているから自分もそのように思うのです。自分独自の見解なんてあったものではない。そしてそれはまっとうで、外側からは”変”。 民主主義も資本主義もあまり変だと言われません。それはもうみんなが組み込まれて、前提にしているから。だからきっと、”変”なんだろうなぁ、と思うのです。 今は、日本政府の対応に対して変だ、おかしいなんて声が飛び交ってメディアを席巻(そして多くの人を扇動)していますが、みんなが変だって言っている、その状態が”変”なんですからね。だから、日本だってしっかりと”変”です。みんなが変だって言い始めてその主張を疑わないのだから。 要するに、賛同者が増え始めて、みんなが口を揃えて何かを主張しだしたときに、それはもう”変”なんだと、そして自分のことを”変”だと思えなくなるんだと思うのです。マイノリティーである内はぶつかるべき大勢があって、割と自分のことについて考えますから。自...

ベステンダンク

え~とですね、これから書くことは、実にしてホントただの思いつきなんですけどね、テーマがテーマなんで軽々しいことは書けないんですが…。 いや、死刑制度についての話なんですけどね。 僕は基本的に、死刑という刑罰が現代日本において施行されるということに、全然プラスの意味が見つけられないのです。だったらお前は死刑廃止論者かというと、僕はそういうイデオロギー的なものを体内に蔵していないので、あまり当てはまらない。漠然と「死刑ってなんかあんまりだよなぁ」なんて思ってるぐらいです。だから、「なぜゆえに死刑に反対するのか」などと詰問されると、自分の意見みたいなものをキッチリと整備しているわけではないので、理路の通った説明なんてできないのです。もう答えに窮してしまう。下手すると、「なんとなくです…」みたいなモヤッとしたことを口にしかねない。 しかしですね、一個ぐらい言えることはですね、「殺人者の命を刑罰で消すことによって(報復によって)、遺族の感情にケリをつける」ということが、非常にクダラナイと思うのです。 死刑なんて、本当は誰も得をしないんです(多分)。だけども、死刑という制度はあって、それを支える論拠は「遺族の感情を斟酌せよ」という命法なのだと思います。 「自分の大切な人を殺した人間を殺してやりたい」という人がいるのはわからないでもないのです(自分にそういう感情が生じるかどうかはわからないですが)。 でも、僕は思うのだけれど、そういう理不尽な出来事(殺人事件の遺族になる)は、もしくはそれに起生するやっかいな心理的状況は、最終的には「自分で引き受けるしかない」。 死刑によって「ようやく気持ちの整理がつきました」なんていうのは、問題解決の主体性を外部に委ねてしまっていて、本人による”乗り越え”という作業が欠落しているように思うのです。死刑で「ようやく…」という人に対しては、「本当にそれで、もういいのですか?」と訊いてしまいたくなるのです。もちろん、殺人というまさに「理不尽」に巻き込んれ、精神的機能に打撃を受けた人に対してそのような態度をとるのは如何なものかというツッコミはあるでしょうが…。 しかし、それでもやはり、というよりかはむしろ、本人(遺族)の為にも死刑というシステムによる一瞬の裁断的カタルシスにすがるべきではないだろうと思うのです。 苦悩に幕を降ろすのに...

存在することに寄せる、極めて具体的な関心~あるいはソマティクスと感覚的世界像~

どうも。卒論の試案をそろそろ始めようかと思います。 順次アップデートしていく予定です。 では。