なるだけ早めに旅立ちたい
「史上最悪の四日間」という映画を観てきました。いや、そんな映画ないんですけどね。観てきたというのは本当です。察してください。
ブレーカーが落ちてしまったような、そんな感じをもたらしてくれるワケなんですけど、その中には新味も多々あったれば、「キミ、この前もいたよね」という古参もいました。なのでその古参の話(あるいは既視感)。
困ったことに、人間という生物には精神の不調というものが付き物です。「必要だから存在するのだ」と見栄を切られればそれまでですが、本人が苦しいのだからやっぱり困ったものです。
何かを判断する事ができなくなったり、これからの出来事が不安になったり、とにかくイライラしたりする。それから、何かにつけ思考が悲観的にループする。全てのことが、自分に圧し掛かった重たい厄介ごとに思えてくる。悲観的になると、本当にモノの見え方感じ方が変わってしまいます。
というわけで、今回は悲観との再会でも題材に。
もうキレイなものでした。それはそれは。昔に会ったことがあるから、悲観の描く曲線がなんだか以前に視たことがあるような気がするのです。「ここはこう来て、こっちはこうで、ここで落ちて…あ、やっぱり?」と。なんとなく、すでにわかっている。それから、悲観的じゃないときの認識のあり方も知っているから、それとの乖離が意識される。
だけでも、苦しさは俄然健在なのです。いくら知っているからといって、トレースできるからといって、違う認識の仕方があることを知っていても、苦しいものは苦しい。
それは、思考は自分の意識ではコントロールできないということでしょう。いくらそれが非合理的で生産性のない思考であっても、またそうであることを自分の頭ではわかっていても、それは人間の認識世界を侵食していく。おのずから、勝手に破滅へと向かおうとする。頭ではわかっていても止まらない。繰り返しますが、思考は自分の意識ではコントロールできない。コントロールの埒外にある自律的な運動です。考えるという行為は、まさに「自分が主体的に」行っていると思われがちですが、その文法や定型というのはほとんど「自分の状態に」規定される。それは、自分の意識がウムウムと唸っても介入や操作はできない。
そして、思考というのはむしろ身体に属していると考えていい。だから、身体が変わると考え方も自然と変わってくるというのが僕の実感です。いやもちろん、いろんな説明の仕方というか、観方があっていいと思うのです。心を切り口にして思考にアプローチしたり。そこは人それそぞれの作法でいい。ただ僕は、どういうときに考え方のフレームが修正されたかと考えたときに、それはやっぱり身体が契機になったのだというのが、拭えざる実感です。
話がずれました。
だから、思考の枠組みを変えるというのは、本人の意思ではほとんど不可能なのです。がんばってもどうしようもない。それから、悲観的になって「もうどうしようもない」という人に「なんとかなるよ」と励ましても何の意味もない。理屈が説得に当たっても、なんの変化も起こせないのです。本人の思考は、トルネード的に同位相の介入なら全て撥ね退けてしまいます。
だから、うつ病の人って大変なんだなぁ、とつくづく思いました。自分でそれに近い状態になってみると、いかに身動きが取れないかがわかるので。ただ、苦しみはたいして軽減されないにしても、以前にも同じ状態があったなという経験値があると、多少は乗り越えやすいかと思います。だから、重篤なうつになる前に軽いうつを経験しておいて免疫をつくるというのもあるいは手なのかもしれません。何度も言うように、苦しさは変わりませんが既視感は手管になってくれるはずです。かつて経験したものだったら、なんとなく乗り越えられそうな…。
「若者よ、一度はうつになろう」アレ?違う?まぁいいや。
それから、考え方がどうしようもなく悲観的になってしまった人に別の考え方を提示して(いや、違う考え方もあるんだよ、と)対処するというのはほとんど有効ではないと述べました。本人だってそんなことはわかっていて自分の思考の枠から逃れられないんですから。
だから、「家庭でできるうつ病看病」というものがあるとしたら、ずっとそばにいて、何も話さなくてもいいから足の裏とか身体に触れてあげているとか、そいうのどうでしょう?僕は放って置かれるのも辛いし、ぐだぐだ説得させるのも嫌です。ただそばにいて安心感を与えてもらいたい。辛いとき、僕はそういうことを望んでいるのです。それから心配されるのも非常に不快。ただ、気を楽にして身体に触れていて欲しいのです。
ブレーカーが落ちてしまったような、そんな感じをもたらしてくれるワケなんですけど、その中には新味も多々あったれば、「キミ、この前もいたよね」という古参もいました。なのでその古参の話(あるいは既視感)。
困ったことに、人間という生物には精神の不調というものが付き物です。「必要だから存在するのだ」と見栄を切られればそれまでですが、本人が苦しいのだからやっぱり困ったものです。
何かを判断する事ができなくなったり、これからの出来事が不安になったり、とにかくイライラしたりする。それから、何かにつけ思考が悲観的にループする。全てのことが、自分に圧し掛かった重たい厄介ごとに思えてくる。悲観的になると、本当にモノの見え方感じ方が変わってしまいます。
というわけで、今回は悲観との再会でも題材に。
もうキレイなものでした。それはそれは。昔に会ったことがあるから、悲観の描く曲線がなんだか以前に視たことがあるような気がするのです。「ここはこう来て、こっちはこうで、ここで落ちて…あ、やっぱり?」と。なんとなく、すでにわかっている。それから、悲観的じゃないときの認識のあり方も知っているから、それとの乖離が意識される。
だけでも、苦しさは俄然健在なのです。いくら知っているからといって、トレースできるからといって、違う認識の仕方があることを知っていても、苦しいものは苦しい。
それは、思考は自分の意識ではコントロールできないということでしょう。いくらそれが非合理的で生産性のない思考であっても、またそうであることを自分の頭ではわかっていても、それは人間の認識世界を侵食していく。おのずから、勝手に破滅へと向かおうとする。頭ではわかっていても止まらない。繰り返しますが、思考は自分の意識ではコントロールできない。コントロールの埒外にある自律的な運動です。考えるという行為は、まさに「自分が主体的に」行っていると思われがちですが、その文法や定型というのはほとんど「自分の状態に」規定される。それは、自分の意識がウムウムと唸っても介入や操作はできない。
そして、思考というのはむしろ身体に属していると考えていい。だから、身体が変わると考え方も自然と変わってくるというのが僕の実感です。いやもちろん、いろんな説明の仕方というか、観方があっていいと思うのです。心を切り口にして思考にアプローチしたり。そこは人それそぞれの作法でいい。ただ僕は、どういうときに考え方のフレームが修正されたかと考えたときに、それはやっぱり身体が契機になったのだというのが、拭えざる実感です。
話がずれました。
だから、思考の枠組みを変えるというのは、本人の意思ではほとんど不可能なのです。がんばってもどうしようもない。それから、悲観的になって「もうどうしようもない」という人に「なんとかなるよ」と励ましても何の意味もない。理屈が説得に当たっても、なんの変化も起こせないのです。本人の思考は、トルネード的に同位相の介入なら全て撥ね退けてしまいます。
だから、うつ病の人って大変なんだなぁ、とつくづく思いました。自分でそれに近い状態になってみると、いかに身動きが取れないかがわかるので。ただ、苦しみはたいして軽減されないにしても、以前にも同じ状態があったなという経験値があると、多少は乗り越えやすいかと思います。だから、重篤なうつになる前に軽いうつを経験しておいて免疫をつくるというのもあるいは手なのかもしれません。何度も言うように、苦しさは変わりませんが既視感は手管になってくれるはずです。かつて経験したものだったら、なんとなく乗り越えられそうな…。
「若者よ、一度はうつになろう」アレ?違う?まぁいいや。
それから、考え方がどうしようもなく悲観的になってしまった人に別の考え方を提示して(いや、違う考え方もあるんだよ、と)対処するというのはほとんど有効ではないと述べました。本人だってそんなことはわかっていて自分の思考の枠から逃れられないんですから。
だから、「家庭でできるうつ病看病」というものがあるとしたら、ずっとそばにいて、何も話さなくてもいいから足の裏とか身体に触れてあげているとか、そいうのどうでしょう?僕は放って置かれるのも辛いし、ぐだぐだ説得させるのも嫌です。ただそばにいて安心感を与えてもらいたい。辛いとき、僕はそういうことを望んでいるのです。それから心配されるのも非常に不快。ただ、気を楽にして身体に触れていて欲しいのです。
どうも~。Baba Riさんの文章を読んで、考えたことを書きまんもす。
返信削除わたすは、身体と心は相互の関係しあっていると考えています。身体の状態を変化させることが気分の状態の変化に繋がり、反対に気分の状態を変化させることが、身体の状態の変化にも繋がりうるのだとも思います。どちらも然り。「身体と心のどちらが先行するのか」という視点に立ってあまり考えたことはないですが、Baba Riさんの関心事のメインとされるのが、身体であるように、わたしの関心事のメインは、心(思い、意識)です。
さて、目指そうとするものに近づいていくために、身体に焦点をあてたアプローチの方が取り組みやすいと思う人は、その路線でやっていくのがいっそう効果的であろうし、心(思い、意識)に焦点づけたアプローチの方に関心があり、それがやりやすいと思う人はそうするのがいいと思うのです。どちらからの方法でもOKということでしょう。人によっては、両方を取り入れながら目指すものに近づいていこうという人もいるでしょう。それは、その人が解決したいと願うことに、どのような取り組み方でしていくのがやりやすいか、合っているのか、ということによるのだと思いますが、どうでしょうか・・・。
心の世界が語られる時、とかく「何を」思っているのかと「内容」が重んじられ、誤解されやすいのですが、大切なのは「どのように」思っているのかという「仕方」です。同じ内容を思うのでも、仕方が異なれば、そのあり方も大きく異なります。「理屈では分かっているけれども、感情がついてこない」「思ってみても変わらない」時には、どのような心の姿勢でその「内容」を思っているかなと「仕方」への配慮をしていくことが大切になってくる。
頑張って必死に思考の枠組みを変えようとしても変わらないってその通りだと思います。なぜなら「仕方」が辛くきついもので、思考内容を変化させても、同時に辛さやきつさも心に作用していると考えられるから。
身体技法である動作法も、対話による意識体験療法も狙っているのは、この「仕方(心の姿勢、思い方、心の構え、気分の状態とでもいいましょうか)」を整えていく、より自然なものにしていくというところにあり、そういう意味では媒体は異なりますが狙いはかぶります。
どのように思っているのかという「仕方」を整える為に、敢えて言葉を使用せず、感覚を意識し意識化されたものをそのまま受け取っていくことが有効なこともあるし、治療的な暗示を能動的に使ってみることの方が、有効な場合もあるというわけです。
提示された思考の枠組みを聞いて、そこで無理なく自然に思えたことが心に作用する。提示されて思うことは、人によって様々ですよね。
「仕方(心の姿勢、思い方、心の構え、気分の状態などなど)」が整うことは、自己受容的な感覚が機能していくことにつながっていくことだと考えています。
・・・とここまで書いておいてですが、あ~身体に関心あるんだよと明言されているBaba Riさんに、こんなん説明しても、いまいちだったよな~と反省(苦笑)。
でも、たとえ、関心のあることや、大切に思うことが異なっているとしても、いやいや、異なっているからなおさら、Baba Riさんが目指すものが、わたしが発言(コメント)することによって、よりはっきりとしてくるといいなと思います。違ってええのです。そう思います。
Baba Riさんが「能動的、主体的な思い、意識は存在せず、全ては身体の状態に規定される」と思い、そこを原点に行きたい(生きたい)と願うならば、それも1つの素敵な考え方、生き方であると思っています。そして、それは誰に阻まれるものでも、否定されるものでもない。身体に規定される思考。その路線を追及していきやしょう。関心事はちと異なりますが、私もBaba Riさんの路線に沿って、そして自分の立場から、何か協力できることってないものかな・・・と常々考えています。
ちえぞうさん、
返信削除僕は「能動的、主体的な思い、意識は存在せず、全ては身体の状態に規定される」と思っているわけではないです。むしろ、それらと身体が密接に関連付けられている(というか、同一事象の別側面だろう)と考えてる。
そして、「少なくとも僕においては」それらを変容させていくときに身体からアプローチしていくのが好きだ、というだけの話です。別に「全ては身体に束縛される」なんてペシミスティックな見解をものしているワケではないです。
どうぞ、ご理解ください。
まぁ、わかっているんだろうけど、表現が誤解を生みます。
ではでは。懇切丁寧なコメントに対してこんな簡易な応じ方ですみません。