ベステンダンク
え~とですね、これから書くことは、実にしてホントただの思いつきなんですけどね、テーマがテーマなんで軽々しいことは書けないんですが…。
いや、死刑制度についての話なんですけどね。
僕は基本的に、死刑という刑罰が現代日本において施行されるということに、全然プラスの意味が見つけられないのです。だったらお前は死刑廃止論者かというと、僕はそういうイデオロギー的なものを体内に蔵していないので、あまり当てはまらない。漠然と「死刑ってなんかあんまりだよなぁ」なんて思ってるぐらいです。だから、「なぜゆえに死刑に反対するのか」などと詰問されると、自分の意見みたいなものをキッチリと整備しているわけではないので、理路の通った説明なんてできないのです。もう答えに窮してしまう。下手すると、「なんとなくです…」みたいなモヤッとしたことを口にしかねない。
しかしですね、一個ぐらい言えることはですね、「殺人者の命を刑罰で消すことによって(報復によって)、遺族の感情にケリをつける」ということが、非常にクダラナイと思うのです。
死刑なんて、本当は誰も得をしないんです(多分)。だけども、死刑という制度はあって、それを支える論拠は「遺族の感情を斟酌せよ」という命法なのだと思います。
「自分の大切な人を殺した人間を殺してやりたい」という人がいるのはわからないでもないのです(自分にそういう感情が生じるかどうかはわからないですが)。
でも、僕は思うのだけれど、そういう理不尽な出来事(殺人事件の遺族になる)は、もしくはそれに起生するやっかいな心理的状況は、最終的には「自分で引き受けるしかない」。
死刑によって「ようやく気持ちの整理がつきました」なんていうのは、問題解決の主体性を外部に委ねてしまっていて、本人による”乗り越え”という作業が欠落しているように思うのです。死刑で「ようやく…」という人に対しては、「本当にそれで、もういいのですか?」と訊いてしまいたくなるのです。もちろん、殺人というまさに「理不尽」に巻き込んれ、精神的機能に打撃を受けた人に対してそのような態度をとるのは如何なものかというツッコミはあるでしょうが…。
しかし、それでもやはり、というよりかはむしろ、本人(遺族)の為にも死刑というシステムによる一瞬の裁断的カタルシスにすがるべきではないだろうと思うのです。
苦悩に幕を降ろすのに、そんな外来的で単純な力に頼るべきではない、というのが僕の主張なのかもしれません。
もし殺人事件の遺族になることが「理不尽」なのだとしたら、僕たちが各々の特性を持って生まれてきてしまったことも「理不尽」なのです(極論かもしれませんが)。もちろん、髪の毛がチリチリであることを誰かの責任に帰することはできませんが、殺人の場合は犯行を行った者に責任を負わせられるという違いはあります。でも、殺人者だって、殺人を犯すような人間に生まれつきたかったワケではない(これは、自由意志の問題と関係してくるから面倒なのですが)。誰かに責任を負わせたいと思ったら、その人を生み出した人に責任があって、その生み出した人の責任はさらにその生み出した人を生み出した人の責任であって…という無限後退で神様の出番ですが…。
話がずれてます。
とにかく、そんな連鎖をどこかで絶ち切るためにも(髪の毛チリチリで両親を恨んでいる場合じゃない)、たとえ自分で望んだわけではない状態であったとしても、自分に訪れてしまったのならば「自分のもの」として引き受けるしかない。それがいかに困難で報われない作業であろうとも。だから、システムなんかにそれを担ってもらうわけにはいかない。もちろん、いろんな人の助けを借りる必要はあるでしょう。だけれども、「あいつが死刑になれば終わるんだ」なんていう単純な話ではないと思うのです。
制度・装置としての死刑によって遺族がどの程度救われうるのか。それは議論が分かれるだろうし、個々人で差異がある事柄でしょう。思うのですが、それは喩えるならば目標です。死刑執行という時間的定点が定まっていて、また、誰かが死ぬという行為到達地点が明確に定まっている。そして、それが達成されれば精神が慰謝されると予期している。まるで、全てがそこに集約されているかのように求心的に時間を手繰り渦巻かせているのです。だから、それはセッティング済みなのです。時も、行為も、それによって得られる効能も、全て予め予想できている。だから、「それ」が行われれば自分の精神がリリースされるはずと決め込んでいる。
確かに、怨むべき人間(もしくは邪魔な人間)が死んでくれたら、ある程度は愉快かもしれません。いや、愉快でしょう。そして、死刑執行というトリガーは、ある種の達成感や満足感を遺族に与えるのかもしれません。
しかし、「大切な人を理不尽に失った喪失感とやるせない怒り」という大層な荷物を抱え込んだ心が、「何か」を乗り越えて快復していく(おそらく正確には成長していく)という過程において、目標到達なるものが如何ほどに意味を持ちえるのでしょうか。人間が変わっていくこと、成長していくこと、そういった現象に目標設定という方法はあまり馴染みません。なぜなら、人間が変わるということは、目標の設定者が変わるということだからです(これは以前どこかで書きました)。
だから、死刑執行による目的の遂行と刹那的カタルシスは、その人(遺族)の人間的伸張とほとんど一致しません(多分)。「喪失感」や「怒り」を乗り越えるといった課題は、そういう目的論的に語れる論件ではなしに、自身の力と周囲の援助(時間なども)によって少しずつ少しずつ、どこに辿り着くのかもわからずに自己を更新していくという、正解のない道を辿ることによって果たされると思うのです。ですから、それは終わらない。人生という成長の物語の中に、一節として上手く組み込まなければならないのです。それが治癒の過程であると同時に人生それ自体でもあるのです。
つまり、それが「引き受ける」ということです。
死刑執行という目標到達(もしくはそれに伴うカタルシス)が、決して本人(遺族)の心的成長と合致しないというのはそういうことです。
僕たちが優先しなければならないのはどちらでしょうか?目的が達せられたときに得られる愉悦なのか、それとも「事」を乗り越えて人間的に成長していくことなのか?そんなことは明々白々でしょう。
僕たちはが大事にしなければならないのは「その人」ですから、傷の縫合自体はなんというか対処療法的に留まるのであって、それを超えて「生きていく」というパースペクティブを持たないといけないはずなのです。だから、どう傷を治すかよりも、どう生きていくのかが重要なのです。それは、当人の手でずぅぅっと行わなければならないのであって、システムによるコマンドなんかはなんの援助にもならない。
ここらあたりで限界のようです。
こういうことを言っていると、「理屈でしょ」なんてあしらわれそうですが、実際の話、自分の手で何かを引き受けた方が、大変だけれども得るものは多いと思うのです。
ひょっとしたら、死刑を望む人というのは、苦境に早々と終止符を打たせたいのかもしれない(みんなそうか)。でも、終わらせないで心の中でぐじゅぐじゅと葛藤しているのって、大事なのかもしれない。時間をかけてゆっくりと浄化させていくのだったら、別に誰かに死んでもらう必要なんてないですよね。痛みは教訓にすればいいのであって、痛みを痛みで制することはないんです。
というわけで、「死刑、(被害者サイドからも)あんまり効果的じゃない論」でした。加害者サイドからやると、非常に危ない話になるので止めておきます。
いや、死刑制度についての話なんですけどね。
僕は基本的に、死刑という刑罰が現代日本において施行されるということに、全然プラスの意味が見つけられないのです。だったらお前は死刑廃止論者かというと、僕はそういうイデオロギー的なものを体内に蔵していないので、あまり当てはまらない。漠然と「死刑ってなんかあんまりだよなぁ」なんて思ってるぐらいです。だから、「なぜゆえに死刑に反対するのか」などと詰問されると、自分の意見みたいなものをキッチリと整備しているわけではないので、理路の通った説明なんてできないのです。もう答えに窮してしまう。下手すると、「なんとなくです…」みたいなモヤッとしたことを口にしかねない。
しかしですね、一個ぐらい言えることはですね、「殺人者の命を刑罰で消すことによって(報復によって)、遺族の感情にケリをつける」ということが、非常にクダラナイと思うのです。
死刑なんて、本当は誰も得をしないんです(多分)。だけども、死刑という制度はあって、それを支える論拠は「遺族の感情を斟酌せよ」という命法なのだと思います。
「自分の大切な人を殺した人間を殺してやりたい」という人がいるのはわからないでもないのです(自分にそういう感情が生じるかどうかはわからないですが)。
でも、僕は思うのだけれど、そういう理不尽な出来事(殺人事件の遺族になる)は、もしくはそれに起生するやっかいな心理的状況は、最終的には「自分で引き受けるしかない」。
死刑によって「ようやく気持ちの整理がつきました」なんていうのは、問題解決の主体性を外部に委ねてしまっていて、本人による”乗り越え”という作業が欠落しているように思うのです。死刑で「ようやく…」という人に対しては、「本当にそれで、もういいのですか?」と訊いてしまいたくなるのです。もちろん、殺人というまさに「理不尽」に巻き込んれ、精神的機能に打撃を受けた人に対してそのような態度をとるのは如何なものかというツッコミはあるでしょうが…。
しかし、それでもやはり、というよりかはむしろ、本人(遺族)の為にも死刑というシステムによる一瞬の裁断的カタルシスにすがるべきではないだろうと思うのです。
苦悩に幕を降ろすのに、そんな外来的で単純な力に頼るべきではない、というのが僕の主張なのかもしれません。
もし殺人事件の遺族になることが「理不尽」なのだとしたら、僕たちが各々の特性を持って生まれてきてしまったことも「理不尽」なのです(極論かもしれませんが)。もちろん、髪の毛がチリチリであることを誰かの責任に帰することはできませんが、殺人の場合は犯行を行った者に責任を負わせられるという違いはあります。でも、殺人者だって、殺人を犯すような人間に生まれつきたかったワケではない(これは、自由意志の問題と関係してくるから面倒なのですが)。誰かに責任を負わせたいと思ったら、その人を生み出した人に責任があって、その生み出した人の責任はさらにその生み出した人を生み出した人の責任であって…という無限後退で神様の出番ですが…。
話がずれてます。
とにかく、そんな連鎖をどこかで絶ち切るためにも(髪の毛チリチリで両親を恨んでいる場合じゃない)、たとえ自分で望んだわけではない状態であったとしても、自分に訪れてしまったのならば「自分のもの」として引き受けるしかない。それがいかに困難で報われない作業であろうとも。だから、システムなんかにそれを担ってもらうわけにはいかない。もちろん、いろんな人の助けを借りる必要はあるでしょう。だけれども、「あいつが死刑になれば終わるんだ」なんていう単純な話ではないと思うのです。
制度・装置としての死刑によって遺族がどの程度救われうるのか。それは議論が分かれるだろうし、個々人で差異がある事柄でしょう。思うのですが、それは喩えるならば目標です。死刑執行という時間的定点が定まっていて、また、誰かが死ぬという行為到達地点が明確に定まっている。そして、それが達成されれば精神が慰謝されると予期している。まるで、全てがそこに集約されているかのように求心的に時間を手繰り渦巻かせているのです。だから、それはセッティング済みなのです。時も、行為も、それによって得られる効能も、全て予め予想できている。だから、「それ」が行われれば自分の精神がリリースされるはずと決め込んでいる。
確かに、怨むべき人間(もしくは邪魔な人間)が死んでくれたら、ある程度は愉快かもしれません。いや、愉快でしょう。そして、死刑執行というトリガーは、ある種の達成感や満足感を遺族に与えるのかもしれません。
しかし、「大切な人を理不尽に失った喪失感とやるせない怒り」という大層な荷物を抱え込んだ心が、「何か」を乗り越えて快復していく(おそらく正確には成長していく)という過程において、目標到達なるものが如何ほどに意味を持ちえるのでしょうか。人間が変わっていくこと、成長していくこと、そういった現象に目標設定という方法はあまり馴染みません。なぜなら、人間が変わるということは、目標の設定者が変わるということだからです(これは以前どこかで書きました)。
だから、死刑執行による目的の遂行と刹那的カタルシスは、その人(遺族)の人間的伸張とほとんど一致しません(多分)。「喪失感」や「怒り」を乗り越えるといった課題は、そういう目的論的に語れる論件ではなしに、自身の力と周囲の援助(時間なども)によって少しずつ少しずつ、どこに辿り着くのかもわからずに自己を更新していくという、正解のない道を辿ることによって果たされると思うのです。ですから、それは終わらない。人生という成長の物語の中に、一節として上手く組み込まなければならないのです。それが治癒の過程であると同時に人生それ自体でもあるのです。
つまり、それが「引き受ける」ということです。
死刑執行という目標到達(もしくはそれに伴うカタルシス)が、決して本人(遺族)の心的成長と合致しないというのはそういうことです。
僕たちが優先しなければならないのはどちらでしょうか?目的が達せられたときに得られる愉悦なのか、それとも「事」を乗り越えて人間的に成長していくことなのか?そんなことは明々白々でしょう。
僕たちはが大事にしなければならないのは「その人」ですから、傷の縫合自体はなんというか対処療法的に留まるのであって、それを超えて「生きていく」というパースペクティブを持たないといけないはずなのです。だから、どう傷を治すかよりも、どう生きていくのかが重要なのです。それは、当人の手でずぅぅっと行わなければならないのであって、システムによるコマンドなんかはなんの援助にもならない。
ここらあたりで限界のようです。
こういうことを言っていると、「理屈でしょ」なんてあしらわれそうですが、実際の話、自分の手で何かを引き受けた方が、大変だけれども得るものは多いと思うのです。
ひょっとしたら、死刑を望む人というのは、苦境に早々と終止符を打たせたいのかもしれない(みんなそうか)。でも、終わらせないで心の中でぐじゅぐじゅと葛藤しているのって、大事なのかもしれない。時間をかけてゆっくりと浄化させていくのだったら、別に誰かに死んでもらう必要なんてないですよね。痛みは教訓にすればいいのであって、痛みを痛みで制することはないんです。
というわけで、「死刑、(被害者サイドからも)あんまり効果的じゃない論」でした。加害者サイドからやると、非常に危ない話になるので止めておきます。
こんばんみ。お久しぶりです。お元気ですか~。
返信削除私が若い頃から、繰り返しよく考えるテーマの1つで、未だに自分なりにしっくりとくる答えがでていないものの1つが、「死刑制度」です。
冷静な視点で、距離を保って考えると「死をもって罪を償う」ということに疑問を感じてしまう。加害者の「死」は果たして償いになるんだろうか・・・と。その点において、死刑制度に対する私の考えの中には、Baba Riさんの考えに近い部分があります。
ただ・・・想像してみるのです。大切な人、愛する人が何の理由もなく惨殺されたならば、どうなのだろうかと。想像するだけでも、心の中には、抑えようもない感情が激しく、ある時には静かに絶えることなく生じてくる。加害者に対する思いの中には「死をもって償ってもらっても、償えない。なぜなら、そうされても死んだあの人はもう戻らないから。でも、死んでほしい。命を奪ったのなら、自らの命と引き換えとするくらいの覚悟は当然必要だ」くらいの(何とも自分勝手な)考えは、その他の思いもある中で鮮明に浮かんでくるのが分かる。
一方、心の中に同時に浮かぶその他の思いを探っていくと「もし、加害者の死を望み、法がそれを執行するとして、その人の命を奪うというということに関しては加害者と同じなのではないだろうか・・・」と。そして、大切な人を失い、悲嘆に暮れる心を回復させていくのは、加害者が死刑になることではなく、やはり自らの心の作業に於いてでしか回復されないことも分かっちょる。
う~む。難問じゃ。
どうも。夜勤明けの管理人です。
返信削除多忙極まりないと想像されるちえぞう氏。その合間を縫ってのコメント、本当にありがとうございます。これぞ僕がブログを更新するモチベーションなのですよ。
さて、死刑ですね。考えてみると、罪を償うというのは、加害者側の改心による主体的な行動のはずですよね。なのにそれが、命を奪われるという極めて受動的な当為でもって果たされる。これって変な話ですよね。なんで殺されることが罪を償うことになるんだ、と。
そこらへんを、遺族感情というものを持ち出してあやふやにしている気がする。まぁそりゃ、斟酌するのは構わないですけどね。
僕は根が冷たい人間だから、誰かが殺されたってそんなに強い情動に駆られることはないだろうということも関係あるかもしれません。多分、身近な人が殺されたら、恨むというよりも呆然としちゃうんだろうなぁ。きっと泣けもしないだろうし。
それから、本当に加害者を恨んでいるのだとしたら、罰して欲しいのなら、死んでもらうより生きる苦しみを味わってもらった方が筋が通っているのではないか。死ぬよりも生きているほうが断然苦しいんですから。
世論調査だと、死刑容認が多数派だそうですが、みんな「もし自分の大切な人が殺されたら」なんてことが想像できるほど想像力が豊かなんだろうか?少なくとも、犯罪抑止力はないんですから。
ではでは。