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風車が折れる

ずいぶん前のレポートです。なんか大江健三郎さん(の小説)について書いてます。 僕は、文芸の世界はまったくの門外漢なので、適当なことを書き散らしているような気がします。そして、大江さんの小説を読んだことがない人には話がまったくわからないと思います。別に誰かのために書いているわけではないので、そういうことです。でも、最後には「ものを書くこと」全般に話が及んでいくので、まったくちんぷんかんぷんということもなかろうと思ってます。風車が折れたのは、別の人の小説でした。 『取替え子』はモデル小説である。だから、事実が大江さんを通して文章になっていたりするし、つまり、実際に起こった出来事が含まれている。塙吾郎の「ドスン」は、周知のように伊丹十三の自殺を示しているし、その後長江が海外にしばらく滞在することになるのも、大江さんの事実に即している。しかし、吾郎の「ドスン」を長江に知らせることになる「田亀」は大江さんの創作であるという。「田亀」は「ドスン」前後の二人のインタラクションとしての役割を果たしているだけでなく、物語的にも長江の心理葛藤に顔を出してきたりと終始重要なファクターとなっている。それだけに、創作と言われれば「確かにそうだろうな」という気はする。しかし、「田亀」が事実と密接に絡められ、加えて描写や設定があまりにも細部まで行き届いているので、それすら本当に存在したのではないかと思えてきてしまうのだ。  これは『取替え子』だけの話ではない。それに連なる『憂い顔の童子』や『さようなら、私の本よ!』でも、さすがに創作的要素は高まるものの、長江の家族構成や生育歴、故郷の伝承などが大江さんのそれと繋がっているわけだから、「本当の部分」が幾分か含まれているのであろうことが想像される。大江さんのそういう傾向がどのあたりから始まったのかはわからないが、少なくとも『個人的な体験』では光さんの出生が描かれているわけで、昔からと言えば昔から、随分長いこと事実と創作を織り交ぜて小説を作ってきたということになる。 しかし、それはもうとっくにわかりきっていること。少し、フィクションということにおいて話をずらす。 物語には、小説にはと言ってもいいが、ストーリーがある。そして、その中で事件的な出来事が起こる。保坂和志のように、当たり前の何気ない日常を描いていたって、(日常でも何かが起こっているように)何...

12月の5日間

(また)レポートの転載です。ちょっと加筆してますけど。内容は、以前にここで書いたことの使い回し(応用?)みたいになっています。   ヒロシマとナガサキについて、僕たちはほとんど何もわからない。それは知識として知っているかどうかということではなくて、実感として思いを馳せることができないということ。いくら末代まで伝えようとしても、ある部分は必ず薄らいでしまうはずである。だから、僕たちの世代は、ある種の人たちは過剰にそれについて語りたがるし、ある種の人たちはそれについてあまりにも無関心になる。どちらにしても、自分の体験として内部に宿していないという点では同じである。  でも話は、そこから始まる。僕たちは、「僕たちがまったく関与しなかったことにも責任を担った方がいい」。それは、当時の人たちにしても同じことだろう。そこでのフツー人たちは、戦争についてまともな情報を与えられていない。自分の頭で考える、という状況ではなかったはずだ。ましてや、彼らのどれほどが「加害者」としての条件を満たしているかと考えると、ほとんどの人がまったくの「白」だとすら言える。それでも、フツー人にも責任があるのだと言う。何もしていないのに責任があるというのはおかしな話なのかもしれない。だけども、僕たちはまっさらな姿で生まれてくるわけではない。僕たちは、全ての人間が後任者なのだ。親を持たない人間はいない。全ての人間が「血」を持って生まれてくる。つながっている。原理的には、親の責任は子供の責任ではない。もし責任というものが一身に担わされることによって治まるものならばそれで構わないだろう。だけども、責任というものはどこかに片付けて置くことができるものなのだろうか。或いはそういうやり方もあるのかもしれない。それが「軍部が悪い」とか「東条が悪い」といった言説で、そういう「責任の押し付け合い」はあらゆる場面で行われている。だけども、責任というのは、どこかにあてがうことで他の部分には免除されるといったものなのだろうか。  僕は経験的にそう思うのだけど、自分で色々な責任を貰っておいた方が振る舞い方が自由になる。責任を持っていると自覚したときに、立ち方がしっかりとして次に行動を起こすための態勢が調う。例えばさっきも書いたように、僕らはまっさらな姿でこの世に登場するわけではない。そこには始めからさまざまなしがらみがある。...

ロビー・イシュー

※スポーツマンの歌詞をググるとなぜかこっちのエントリーがヒットしちゃうみたいなので、最初に書いときます。 スポーツマンの歌詞は別のエントリー。「スケートなんか連れて行かないで」というタイトルのやつです(「スポーツマン」でブログ内検索するとよいかと)。これは一切関係ないです。どうも変だと思ってたの。細野フリークの皆さん、失礼致しております。 心理学の授業のレポート。現行の(良く知らんけど)認知行動療法に対する憤りがちらほら垣間見えます。  うつ病や統合失調症など、いわゆる精神領域での病について調べてみると、結局突き当たるのは「わからない」ということである。それは、原因や経過の仕方なども含めていまだに説明しきる枠組みが確立されていないということである。しかし、だからといって、うつ病や統合失調症が「良く」ならないかというと、そういうこともない。「わからない」のはそう悪いことではない。むしろ、解明されてしまう(説明が通ってしまう理論の確立)と、問題は次のステップへ進み、より深遠な「人間と病」という課題と向き合わなくてはならなくなるだろう。だから、今のところは「わからない」まま最善手を模索して行くしかないし、「わからない」ことは決してマイナスの事態ではない。  という導入。  うつ病の場合、原因は「内因性」と「反応性」(もしくは「外因性」)に大きく大別できる。「内因性」は、特にこれといった「思い当たるふし」はないのだけれど、目覚まし時計のようにある時が来たら発病するといったケースである。「反応性」は、なにかしら外部からのストレスが加わった場合に発病するケースである。例えば、家族や恋人を失うとか、災害にあうとか。「過労」や「上司によるパワハラ」も「反応性」に当たる。どちらがより重篤な病気となりやすいかというと、「内因性」の方である。「反応性」の方は、原因がはっきりとしている(少なくとも説明はできる)だけに、そのストレス源を取り除いたりするだけで回復する場合もあるし、少し休むだけでも症状が好転することもある。「内因性」の方は血縁者に多発するといったケースも多く(ヘミングウェイとか)、遺伝となんらかの関連性があると考えられ、その分話は簡単には済まない。単純に重いか軽いかの問題だけではなく、治りにくいのも「内因性」の方である。  統合失調症の場合、ほとんどは「内因性」が...