12月の5日間

(また)レポートの転載です。ちょっと加筆してますけど。内容は、以前にここで書いたことの使い回し(応用?)みたいになっています。

 ヒロシマとナガサキについて、僕たちはほとんど何もわからない。それは知識として知っているかどうかということではなくて、実感として思いを馳せることができないということ。いくら末代まで伝えようとしても、ある部分は必ず薄らいでしまうはずである。だから、僕たちの世代は、ある種の人たちは過剰にそれについて語りたがるし、ある種の人たちはそれについてあまりにも無関心になる。どちらにしても、自分の体験として内部に宿していないという点では同じである。
 でも話は、そこから始まる。僕たちは、「僕たちがまったく関与しなかったことにも責任を担った方がいい」。それは、当時の人たちにしても同じことだろう。そこでのフツー人たちは、戦争についてまともな情報を与えられていない。自分の頭で考える、という状況ではなかったはずだ。ましてや、彼らのどれほどが「加害者」としての条件を満たしているかと考えると、ほとんどの人がまったくの「白」だとすら言える。それでも、フツー人にも責任があるのだと言う。何もしていないのに責任があるというのはおかしな話なのかもしれない。だけども、僕たちはまっさらな姿で生まれてくるわけではない。僕たちは、全ての人間が後任者なのだ。親を持たない人間はいない。全ての人間が「血」を持って生まれてくる。つながっている。原理的には、親の責任は子供の責任ではない。もし責任というものが一身に担わされることによって治まるものならばそれで構わないだろう。だけども、責任というものはどこかに片付けて置くことができるものなのだろうか。或いはそういうやり方もあるのかもしれない。それが「軍部が悪い」とか「東条が悪い」といった言説で、そういう「責任の押し付け合い」はあらゆる場面で行われている。だけども、責任というのは、どこかにあてがうことで他の部分には免除されるといったものなのだろうか。
 僕は経験的にそう思うのだけど、自分で色々な責任を貰っておいた方が振る舞い方が自由になる。責任を持っていると自覚したときに、立ち方がしっかりとして次に行動を起こすための態勢が調う。例えばさっきも書いたように、僕らはまっさらな姿でこの世に登場するわけではない。そこには始めからさまざまなしがらみがある。親というのは選べないし、この国に生まれた以上はこの国の規則に従わなくてはならない。そういうのは、僕らの選んだことではない。だけれども、それを頑固に拒んだり憎んだりしていると、どこにも進めない。そういう「始めから決まっていたもの」は僕らには動かしようがないのだから、それを受け入れて初めて前へ足を踏み出すことができる。だから、所与の条件の引き受けを覚悟することによって僕らは動き始めることができるのだと思う。そういうことを言い換えれば、「責任を背負う」」ということだろう。それは、何か重責を担わされるというよりむしろ、しっかりと立つことを援助してくれる糸の束である。僕ら一人一人をアイデンティファイする覚悟である。
だから、責任というのは、「誰でも、いくらでも、どんなものでも背負える」。そして、そのことを自覚すればするほど自由に振舞えるようになれる。だから、責任というのは、誰かが背負っても終わらない。終わらせても構わないけれど、あとの人が背負ってもいいはずだ。久しく責任というものは、自由とのトレードオフだと言われてきた。「あなたは自由になるけれど、その代わり責任を負うのですよ」と。社会にできるときに、学校の先生がそんなことを言って脅してくる。だけども僕は、自由になるために、しがらみや因縁や不自由さを引き受けた方がいい、と思う。それは別に自分の犯した罪についてではない。先人たちの犯した罪や、そこから派生する自分への追及である。そういうものは、「自分には関係がない」と無視しておいても構わないけれど、そうすると「生きづらくなるぞ」と思う。
 だから、「フツー人の皆に責任があるのだ」という主張は、それはそれで構わないけれど、背負わない人は絶対に背負わない。別に背負うことが立派なことなわけではないけれど、自由になりたいと思ったら背負うしかない。「責任がある」という風に所在を示そうとするよりも、「背負えますよ」という開かれた状態を示してくれた方が、末代の人にとっては助かるような気がする。

追記.あとから読んでみると、所与の条件(生得)と関与できなった選択(戦争)がごっちゃになって語られていますが、まぁ大丈夫でしょう。そこら辺を一緒くたにしとくと思い至るのは、「僕らは生きているだけで責任を負っている」ということです。多分、狭義には自分や自分を愛する人に対して。広くは全ての存在に対して。そう思っていると、自分って結構「たいした存在」です。まぁ、そういうのを重荷に感じる人はどうぞ人生をフリーライドして下さい。

コメント

  1.  お久しぶり~。Baba Riさんお元気ですか。
     投稿を読んで思い浮かんできたのは、私が大好きなフランクルです。
     キーワードは「生きること」「自分にとっての意味」「態度性価値」「責任」・・・かな。
     ど~んな状況下に生きるとしても、そこを生きるのは「おいら」に他ならないという意味で、どう生きるのかの最終選択と責任は自分にある・・・裏っかえすと、任されちょる、すなわち自由ってことさね。
     定めというのか、縛りというのか、規定というのか、辛さというのか、どうにもならん運命とでもいうのか、動かしようのないものを、引き受ける覚悟ができると、不思議とそれから解放される・・・。
     解放されると同時に、超える感みたいなものがある。何を超えるのかってぇと、そんときの自分自身だったりする・・・。

    ・・・なんだかとりめなりましたが、Baba Riさんの投稿を読んで思い浮かんだことざんす。
    ではでは~。

    返信削除
  2.  あり?数日前にコメント投稿したんやけど、載っとらんみたい。Baba Ri さん調査よろしく。
     Baba Riさんの文章を読んで思い浮かんだわたすのキーワド。「生きること」「意味づけ」「責任」「自由」「捉われからお解放」「フランクル」「態度性価値」
     ・・・という風でしょうか・・・

    返信削除
  3. 「スパム」でした。別にそんなに長くなかったんですけどね。なんでだろう?

    そっか、フランクル好きなんでしたっけね。押しメンですか。ふーむ。

    気づいてないと思いますが、これ、コメントが入るとグーンとアクセスが伸びるんです。知ってました?結構責任重大ですよ(脅)。

    返信削除

コメントを投稿