風車が折れる

ずいぶん前のレポートです。なんか大江健三郎さん(の小説)について書いてます。
僕は、文芸の世界はまったくの門外漢なので、適当なことを書き散らしているような気がします。そして、大江さんの小説を読んだことがない人には話がまったくわからないと思います。別に誰かのために書いているわけではないので、そういうことです。でも、最後には「ものを書くこと」全般に話が及んでいくので、まったくちんぷんかんぷんということもなかろうと思ってます。風車が折れたのは、別の人の小説でした。

『取替え子』はモデル小説である。だから、事実が大江さんを通して文章になっていたりするし、つまり、実際に起こった出来事が含まれている。塙吾郎の「ドスン」は、周知のように伊丹十三の自殺を示しているし、その後長江が海外にしばらく滞在することになるのも、大江さんの事実に即している。しかし、吾郎の「ドスン」を長江に知らせることになる「田亀」は大江さんの創作であるという。「田亀」は「ドスン」前後の二人のインタラクションとしての役割を果たしているだけでなく、物語的にも長江の心理葛藤に顔を出してきたりと終始重要なファクターとなっている。それだけに、創作と言われれば「確かにそうだろうな」という気はする。しかし、「田亀」が事実と密接に絡められ、加えて描写や設定があまりにも細部まで行き届いているので、それすら本当に存在したのではないかと思えてきてしまうのだ。
 これは『取替え子』だけの話ではない。それに連なる『憂い顔の童子』や『さようなら、私の本よ!』でも、さすがに創作的要素は高まるものの、長江の家族構成や生育歴、故郷の伝承などが大江さんのそれと繋がっているわけだから、「本当の部分」が幾分か含まれているのであろうことが想像される。大江さんのそういう傾向がどのあたりから始まったのかはわからないが、少なくとも『個人的な体験』では光さんの出生が描かれているわけで、昔からと言えば昔から、随分長いこと事実と創作を織り交ぜて小説を作ってきたということになる。
しかし、それはもうとっくにわかりきっていること。少し、フィクションということにおいて話をずらす。
物語には、小説にはと言ってもいいが、ストーリーがある。そして、その中で事件的な出来事が起こる。保坂和志のように、当たり前の何気ない日常を描いていたって、(日常でも何かが起こっているように)何かが起こる。例えば『カンバセイションピース』では墓参りに行ったりする。それだってイベントだ。それで、当たり前のことだけど、出来事を文章に起こしてみると、それの始まり部分、経過部分、終息部分とメリハリがついてしまう。『カンバセイションピース』の墓参りでは「ハイ、今から行きます」ということが、つまり、「これからイベントが始まりますよ」ということが告げられている。文章においてはある状態からある状態への移行部分、境界がハッキリと書かれてしまうのだ。僕らは文章を通してそういう状態移動のようなものを明確に捉える。しかし、大江さんの小説においては、ある状態からある状態への移行が明確には見えないのである。筋としては何がどうなっているかはわかるのだけれど、どこで何が変わったのか、いつそれが始まったのかが「ここ」という箇所で示すことができない。境目が不分明なのである。だから、大江さんの小説でどんなことが書かれていましたか、と聞かれても、何も起こっていないような気がしてしまう。実際には結構波乱万丈だったり、奇想天外だったりするのだけれど、それが独立した「出来事」として捉えられることは少ない。大江さんの小説はいつも曖昧で「現実的」ではないような気がしてしまう。イベントが明瞭に把握できないから。
しかし、いや、ひょっとしたら、「境目が不分明」というのは誤りかもしれない。実は、境目はしっかり書かれているのだけれど、大江さんの文体が、我々が文章から起承転結を読み取る認識構造に簡単にはマッチしないのかもしれない。つまり、我々は文章を書くことによって現実を整合化する。認識しやすくする。秩序立てたいのだ。しかし、大江さんの文体はそれをしない。現実をそのまま持ってくる。それが、大江さんのリアリズムなのかもしれない。判りにくいという事がだ。だから、大江さんの小説では出来事が「独立」してくれないのだけれど、それが現実というものなのかもしれない。
大江さんの小説がフィクションという気がしないのも、このことに由来しているのだろうか。我々は小説を読むとき、それがいかにリアリズムに徹していようとも、つまり現実に起こりそうなことだけが書かれていたとしても、それがフィクションだと気づいている。それはなぜかと言えば、「書かれている」からだろう。現実を文章にするということは、認識し易いように変換するという事であって、その過程で現実のモヤモヤした部分は取捨される。だから、わかり易いように、そして現実に忠実に書くということは実はダブルバインドなのだろう。それは全然悪いことではなくて、小説において、あるいは誰かが何かを書くという行為において自然と行われる工程であって、それが為に文章があるとすら言える。しかし、大江さんはそれを拒否する。意識的か無意識的かはわからないが。大江さんの小説がそのように「現実感」を持ちながら現実感を感じ取らせにくいとしたら、それは現実「というもの」をなるべく文章の力に頼らずに文章化してみせた彼の文体のせいということなのだろう。ちなみに、大江さんのそのリアリズムは後期になるにつれてその傾向が顕著になってくるような気がする。なぜだろうか、後期の方が出来事が独立してこないように感じてしまう。その微妙な文体の変化はまた後日。

コメント

  1.  「生」すなわち現実ってのは、言語的な世界を超えてそこに在るように思う。言葉で表現するということそのものに、書き手のチョイス(選択)という行為がどうしても含まれざるを得ないから。
     同じ現実に生きても、体験は異なり、さらに文章化するとなるとそりゃもう別物って感じになる場合もしばしばでしょう。そう考えると、なんだか面白い。

     ・・・てなことがBaba Riさんの文書を読んで思い浮かんでまいりやんいた。

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  2. えーと、うーんと、そもそも僕らの感覚器官からして「選択的」なわけです。僕らは、「なま」の現実(そういうのがあるとしても)を捉えているわけではない。そういう意味では言語的な「現実」だって一つの認識ではあります。
    そうすると、やっぱり位相の問題かということになって、話はいよいよややこしくなってくる。こじれたらとりあえず放っておきましょう。

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