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自分では決められないので

  弱ってみるのはいいことだ、などとは全然思わないけれど、弱れば必然的に自分の意識的な努力や計らいは全て(100%全てだ!)うまくいかないし、むしろそれは害悪にしかならないので、能動的に何かを選びとるということは出来ず、こうなったら為すがまま行ける方向にしか行けないし、というわけで、ある意味自分の本来の姿みたいものには近づきやすいのかもしれない。  そういう無理の効かない状況で物事が良い方向へ向かっていく為には、結局、自分では良くなろうとしない、ということしかなく、それは努力して何かを成し遂げることよりもずっとずっと困難だ。だってみんな良いことしようとするもんね。いや「良いこと」はした方がいいんだけど、自分で良いことしようとするとそれは良い方向へは働かないので…。  だけどまぁ、行けるところにしか行けない、というか行きようがない、というのはある種の清々しいがあって、自分で自分の道を選びとる、なんて疲れてしょうがないなと思うようになってきた。体力ないし。  こう思うようになったら世界が変わった、ということはなく、とにかくマイペースに丁寧に、足を踏み出すに任せるしかないということでしょうか。皆さまにつきましては、のびのびと無理なく毎日を過ごされることを祈っています。そしてアホになりましょう、はい。  

だから恐れず一緒に生きていこうね、悪夢ちゃん! もしくは人々を癒す宇宙人について

ちょっと前に話題になりましたが、(自称)社会学者・古市憲寿の本に『絶望の国の幸福な若者たち』っつーのがあります。ご存じの方もおられるのでは。ぼくは読んでいないので中身について詳しくは分からないのですが、本人の弁によると「将来に希望は(まるで)ないけれど、自分を取り巻く現状にはある程度満足し、まったり(まるで宮台)と生きている。それでいいじゃん」という心境にたどり着いた若者たちの分析がなされているらしいです。というか、「今の若者たち」を分析した結果「まったりとした幸福に安住する現代の若者たち」という主題を導くに至ったわけですね。 タイトルの「だから恐れず一緒に生きていこうね、悪夢ちゃん!」というセリフ。もしかして聞いたことある人がいるかもしれない。この一つ前のセリフは「どんなに悪い現実の中でも、人はいい夢をみることができる」です。つまり、「どんなに悪い現実の中でも、人はいい夢をみることができる。だから恐れず一緒に生きていこうね、悪夢ちゃん!」という流れになってます。 「悪夢ちゃん」というドラマは世間一般では大して話題とならず、視聴率をみてもお世辞にもヒットしたとは言えない代物だったようです。ちなみにその枠(日テレ、土曜9時)の今クールは「泣くな、はらちゃん」というドラマを放映中。正直全然面白くない。でもなぜか、Yahooのトップニュースで紹介されてた。すごく評判がいい。泣きたいのはぼくの方だ。「悪夢ちゃん」の次だからって少しだけ期待したんだよ…。ぼくは多分この国から出て行ったほうがいいんでしょうね。だってアフリカでは皆「悪夢ちゃん」に熱狂って聞いてるし…。(情報筋) 「未来に希望はなくても、幸福だったらそれでいいじゃん」。と言われると、少し困る。それでお説教を始めたりしないし、呆れることなければ、別に心配もしない。ただ「へー」とか「ふーん」とか思うだけなんだけど、でもちょっとまってよ、「幸福じゃなくなったどうすんのさ?」。それこそ戦争が始まったら?強制収容所に放り込まれたら? と思う。 「幸せ」とか「幸福」が持ち上げられるようになってずいぶんと経つ気がします。幸せになることが人生の目的とか。藤原紀香なんて毎日「私は絶対幸せになる!」って般若の如き形相で唱えてるんだって(幸せじゃないのかよ)。 そういえば、「幸せになる」っていう言葉ももうあんまり...

わたしを読む(視る)

ずいぶん酷いし説明不足だけど、誰か読んでくれるかもしれないし自分のためにも。レポート。あとでもうちょいちゃんと書きたい。K先生をはじめ、演習のメンバーの方々、ありがとうございました。というか、すいませんでした。 生物学上の性別や社会的なジェンダーという意味での「男」「女」についてはひとまず措いてみようと思う。セクシャルマイノリティという存在が「総合された」「統一された」性への危機感や違和感を持つ人々である以上、つまり彼・彼女らが自分には一つの確定的な性別がある(もし私が「女」であれば同時に「男」ではありえない)という前提の元で社会的・身体的齟齬に苦しむ存在である以上、個人の中で同時に、または交替しながら存在する「オトコ」「オンナ」という性的な要素はあまり言及されることがない。 「この世界には二つの性しかない」というのは、少なくとも現在のところは厳然たる事実である。たとえセクシャルマイノリティという彼・彼女らがジェンダー・性別をトランスしようと、その結果どちらかの性に自分のアイデンティティを収めるのだ。しかし、もう少し奥の方まで、眼に見えないところまで自分の感覚を伸ばしてみたい。そこには確かに、二つには割り切れない混沌とした「性」が共存しているように感じる。 印象的だった、というよりも後から思うところがあったのだが、授業中に「自分や自分の周りの女の子は暴力的な男性に惹かれる」といった内容の発言があった。「暴力的」(確かにこの言葉だったと思う)という表現が具体的にどのようなニュアンスを帯びたものなのかは不明だが、おそらくそれは世間一般に言う「男らしい」というイメージに近いものがあるのだろう。音楽家に細野晴臣という人物がいる。日本のロック・ポップミュージックの礎を築いてきた人間であり、また現在でも第一線でバリバリ活躍している人であり私は彼の大ファンであるが(そのような一群の人々は「細野フリーク」と呼ばれる)、もちろんここではその話はしない。私が彼を見ていて思いを及ばすのは、彼と女性たちとの不可思議な関係性についてである。 細野の周りには女性が多く集まる。もちろん音楽仲間がその大多数であるし、男性のミュージシャンとも広い交友関係を持つ。しかし、彼と女性たちとの交流を見ていると、私はそこに「通じ合い」というか「共鳴」というかそういう表現を連想せ...