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 しかし、中井久夫いうところの「不死なる意志」が、人を下支えするものではなくドグサレたヘドロのような滞留物でしかあり得なかったらどうなのだろうか。これは結果論で語っている。「こと」の果たす役割や価値に変転や転動がそもそも織り込まれているのは承知の上、しかし往々にして「そのようにしか作用しない」のであれば、それは憂うべき兆候として解釈すべきだということになる。  示された具体例、「念願の結婚」であるとか「憧れの職を得る」だとか、極めて具体的な「おもい」は実際、長期にわたる保持にあたっては、「時間」を失うという一点を持って、自己からとうに遊離した想念なのだろう。自己が時間からの影響を免れない以上、時間を反映しない「おもい」は自己との接続を安定させられない。「不死」とはすでに死んでいたのか?  問題はその先にある。常軌を逸した、判断の及ぶ領域を超えた、いわば「聖域」に掲げらることになった「おもい」を、人はどうして抱き続けることになるのか。今現在における実現可能性、あるいはそもそもの動機すら鑑みる必要のなくなった「傷のつかない」願望は、もはや熱意に駆動されないことは明白である。自己の一部でありながら、それは自己と共に生きる姿をしていないのだから。  形をなしていない、絶望に瀕しても枯れることのない生きる意志のようなもの、「どんなに悪い現実の中でも人はいい夢を見ることができる」こと。これもまた今現在を度外視しながら自己を生かす力であるはずだが、それがどこかでいびつな具体化をして、妄想的な想念に変貌する、そんな道のりがあるのだとしたら、と一抹の不安なのだ。それが湧出をやめた時に、かつての勇気は人を鈍重にする澱になり得るのだとしたら…。だってその二つの「不死なる意志」は、どこかしら似ていないだろうか?  

ぜんぶ青い。

 テニスのフレンチオープン特有のコールが(正確にはフランスで開かれる大会おそらく全てにおいて同様のコールだが)ある特有の「時間」を思い起こさせた。  「かーぼんたーじゅ」というような音に、そのコールは聞こえる。 「夕方」について書かなくてはならない。「夕方」は、意識/時間/自己といった主題を(思弁ではなく)現実の側から、目の前にでも前頭葉にでも思考の中心にでも叩きつけてくれるだろう。ブルーアワーと呼ばれているらしい世界をまとめて青に染め上げるあの時間帯では、現実の「たがが緩む」といつも思い続けて、しかしそれは実際どのような意味だったか。  かつて友人と赤羽界隈を気ままにほっつき歩いていたとき、進行方向右手に現れた神社は確かに、シチュエーションとして日常から逸脱していたから、「鳥居をくぐって出てきたら異世界」だとか「入るときと出るときで狛犬の顔の向きが変わった」だとか冗談を言ったわけだが、今思えば、それよりもずっと現実の確かさを欠いていたのは、東武東上線に乗り込んで、車窓からすべてが青かった世界を、存分に吸い込みそうになったときだろう。呼吸の浅さが現実感の希薄さを生む、とは敬愛する整体師の知見であるが、なるほど地に足のつかない、しかしそれでもウキウキした気分を味わっていた。実際自分は「夢の中にいるみたい」と言ったのだ。  ここではないどこかへ行きたい、という感覚はたいていいつも持っていて、それは昔からそうだったはずだ。しかし今では、その感覚を「現在」と「未来」へ単純に分けること、つまり今現在の束縛から見果てぬ自由へ飛翔するというイメージへ落とし込むことは避けられ、また、感覚に応えるのはもはや具体的な行為だけでは無く、夕方に立ち現れる現実感の減衰した世界だったりする。昔のことを思えば、感覚からの要求に素直に応えすぎて、どころか、視野の狭いあるいはチャンネルの少ない意識の在りようは、要求を自分の内に巡らせる内に増幅させてしまうありさまで、出力は常に暴走行為という形をとって、わたしは随分からだを引っ越しさせた。今では少なくとも、ここからわたしが足を動かして脱出しなくても、わたしの体を日常訪れることのない場所へ運ばなくても、行ったことのない場所に行けるのだと知っている。「今」も「ここ」も「どこか」も、客観的な時間や地理ではなく、意味の世界へ変換される回路を得た...

沼やスケートリンク

 沼での作業は何でもいい。あるいは目的は意識されていなくてもいい。とり憑かれている事だけが条件だ。何にせよここは沈む。作業が失敗したから沈む。自分は賢明な作業員だから、臨機応変に対応できるはずと、戦略的に振る舞えるはず、と得意げに作業場を移り作業を再開する。この程度の代わり映えのしない方針転換を、理性の働き、もう少し言えば苦境を見渡すことのできる視野の存在証明だとばかりに誇って。しかしどちらにせよ沈むのだ。少し離れた所で同じ事を繰り返して沈むのだ。  戦略的撤退を甘受できる事、どつぼへハマり込む危険を意識する事、そこへまで意識を広げながらとられた方策の貧しさは、より一層傷を深くする。「撤退か継続か」。そのオールオアナッシングの目線の「キマり方」も、貧しさの証明か。一方で、「分かっていながら沈む」という道化の振る舞いへの転化、つまり事態の深刻さを誤魔化してゆくことは、深い傷を避ける為の身の処し方だとも言える。「自分で選んだことだから」は、引くに引けない・手放せない自分の体勢に甘えをゆるす自己正当化の、常套手段だろう。  書くことは沈むことじゃない。だから書こうというのだ。沈む元凶をすっぽり手の内に実感するような、ある意味目の醒めた状況にいる間、元凶を忌々しく感じながら少しだけ冷静でいて、しかし向こうから手の内に潜り込んでくるようにして掴まれたそれの捕まえ方を自分は知らないから、少しすれば手は空っぽだし、またいそいそと沼に沈みにいくのだし。だから自分は何度も元凶を知ったし、何度も忘れたし、また何度も知った。「ずっと沼の上にいればもう少し楽だったかもね」と思いもするが、「休憩が無い分すぐに諦められたんじゃない?」とも言える。ここでも甘えとして息継ぎの場が用意されていることが、ずっと溺れ続けていられる要因となる。 自分に不利な証言は、ことが自身だけに由来する恥なのではなく、誰のうちにも潜む心身の仕組みに根を持つという認識が可能にするはずで、否定ではなく「ある」という事実を認めた先に「対処」の方策が初めて立つものだが、沼の上にいてはどうしても頭が働かないのだ。気づく事は出来れど、力のある思考には安定した足場が必要なのだから。  なぜ沈むのか。呪われているから沈むだと冷静になって考える。すっかり作業に没頭した意識には、呪いなどという非科...

 もっともロクでもないケリの付け方は、「変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ、変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を、われらに与えたまえ」(ラインホルド・ニーバー)といった格言に問いを吸わせてしまう事だ。  この場合私は、自分の思考の結論にこの一節は相応しくないとか、合致しないとか、そういうことを言っているのではない。直感として見えた解答への、たとえそれが正しいのだとしても、「直通」は今の場合、思考の放棄でしかないという事だ。  だからと言って、問いに対して自力で、答えを想定した上ではなく、丁寧に思考を進めていくべきだ、とも思っていない。自然とそうできれば良いのかもしれないが、あいにく、問いを発見した上でそれについて考えるという行為そのものが、答えというまだ中身は存在しないが形は定まったものに「当てはまるもの」を探すだけの、極めて貧弱な、ある種の束縛を受けた道筋にしかならないと感じるからである。 問いにまつわる事柄について考えてみようという提案も、十分にその先を狭めていて、言えるのは、問いと答えという二項を備え持っての完成という常識を自分に課すことはないという事だ。問いはそれだけで完成していて、その開かれ方は「答えに向けられて」いるわけでは必ずしもない。  だから何も考えていない。