ロビー・イシュー
※スポーツマンの歌詞をググるとなぜかこっちのエントリーがヒットしちゃうみたいなので、最初に書いときます。
スポーツマンの歌詞は別のエントリー。「スケートなんか連れて行かないで」というタイトルのやつです(「スポーツマン」でブログ内検索するとよいかと)。これは一切関係ないです。どうも変だと思ってたの。細野フリークの皆さん、失礼致しております。
心理学の授業のレポート。現行の(良く知らんけど)認知行動療法に対する憤りがちらほら垣間見えます。
スポーツマンの歌詞は別のエントリー。「スケートなんか連れて行かないで」というタイトルのやつです(「スポーツマン」でブログ内検索するとよいかと)。これは一切関係ないです。どうも変だと思ってたの。細野フリークの皆さん、失礼致しております。
心理学の授業のレポート。現行の(良く知らんけど)認知行動療法に対する憤りがちらほら垣間見えます。
うつ病や統合失調症など、いわゆる精神領域での病について調べてみると、結局突き当たるのは「わからない」ということである。それは、原因や経過の仕方なども含めていまだに説明しきる枠組みが確立されていないということである。しかし、だからといって、うつ病や統合失調症が「良く」ならないかというと、そういうこともない。「わからない」のはそう悪いことではない。むしろ、解明されてしまう(説明が通ってしまう理論の確立)と、問題は次のステップへ進み、より深遠な「人間と病」という課題と向き合わなくてはならなくなるだろう。だから、今のところは「わからない」まま最善手を模索して行くしかないし、「わからない」ことは決してマイナスの事態ではない。
という導入。
うつ病の場合、原因は「内因性」と「反応性」(もしくは「外因性」)に大きく大別できる。「内因性」は、特にこれといった「思い当たるふし」はないのだけれど、目覚まし時計のようにある時が来たら発病するといったケースである。「反応性」は、なにかしら外部からのストレスが加わった場合に発病するケースである。例えば、家族や恋人を失うとか、災害にあうとか。「過労」や「上司によるパワハラ」も「反応性」に当たる。どちらがより重篤な病気となりやすいかというと、「内因性」の方である。「反応性」の方は、原因がはっきりとしている(少なくとも説明はできる)だけに、そのストレス源を取り除いたりするだけで回復する場合もあるし、少し休むだけでも症状が好転することもある。「内因性」の方は血縁者に多発するといったケースも多く(ヘミングウェイとか)、遺伝となんらかの関連性があると考えられ、その分話は簡単には済まない。単純に重いか軽いかの問題だけではなく、治りにくいのも「内因性」の方である。
統合失調症の場合、ほとんどは「内因性」が絡まっての発病だと考えられている。つまり、ストレスとかそういう外圧が加わっただけではうつ病にはなっても統合失調症にはならない。統合失調症になるには、その人が(あるいは)先天的にその気質を持っている必要がある。だから、発病する契機はさまざまだとしても、結局は「内因性」的な発病しかないとも言える。
症状について。
うつ病にはいろいろな定義がある。代名詞的な症状としては、抑うつ気分が長期間(二週間以上)続く。抑うつ気分とは、何もやる気が起きないとか、とにかく世界がどんよりと感じられるといったものである。他には、身体症状のほうに回って不眠や肩こりなどに表象される場合も多い。後は、頭が回らない(思考が進展しない、むしろ不毛な考えがループする)という兆候も多い。
統合失調症は、症状を説明するのはむつかしい。かねてから「妄想」と「幻聴」と言われてきたが、どうやらそれは正確ではないらしい。どうやら、思考が道筋を辿るときに、その辿り方が正常のそれと違って急激なジャンプをするところにその特徴があるらしい。例えば、「CD」と言われて何を連想するか。通常「音楽」とか「やさしく触ってね」とかを思い浮かべる。しかし、統合失調症の人は、そういう直接的な(あるいは易しい)連想をしないで、「石川日本史Bの実況中継講義!」とか言うのである。確かにあれにはCDがついているけど、普通はそういうところへは連想を飛ばさない(多分)。とにかく、そういう思考の「つながらなさ」が統合失調症の症状を特徴づけているらしい。
それで、どのような点に配慮するか。
うつ病の場合は、それが「内因性」なのか「反応性」なのかに注意を向ける。「反応性」の場合(例えば大学入学という転機がストレスになった)、どれだけ「自分をみている自分」が存在しているかを観察して、そういう自分を客観的に見る視点がある場合は大体は話を聴いておくだけにする。自分で「自分おかしいな」と認識できていれば、話をしているうちになんとなく整理がついてくるはずだからである。だから、相手の認知を改めようとかそういうことは考えずに、クライアントの自己治癒力に任せる。ただし、これは軽度の場合の話である。
「内因性」と判断された場合、ハッキリ言ってどう向き合ったらいいかという一般解は思いつかない。とりあえず、家庭環境が本人のサポートをできる状態にあるかを探ってみる。ただし、家族みんなが必死になって「治そう」と意気込んでいる場合には逆に落ち着いてもらう。
どちらについても言えることだけども、今の認知行動療法が行っているように、「相手の思考の仕方を改める」ということは行わない。本人がそういう風に考えるにはそれなりの根拠があるわけで、その考え方を無理に「変えよう」としても長い目で見たらあまり良いことはない。とにかく、自然に変わってくるのを待つしかないと思う。「治す」のは簡単である。
統合失調症の場合。これは、症状が軽いか重いか、治った方がいいのかそのままでも生きていけるのか、によって対応が異なる。もちろん、治りたいからカウンセリングにくるのだろうけど、病気と一生付き合っていくという選択肢だってある。現に「べてるの家」の取り組みをみればわかる。ただし、ここで想定されているのは軽い場合、しかも治したい場合だから、放っておくわけにもいかない。気をつけたいのは、相手に対する敬意を常に持ちつづけたいということである。「病気だから劣っている」とか、そういう見方をせずに、相手を「興味深いと思うこと」「面白いと思うこと」そういう態度をもって臨みたい。
にゃははは。BaBa Riさん、い~ぞ~い~ぞ~もっと言って。。わたすも、かなりのアンチ認知行動療法でがんす。
返信削除そもそも正しい認知ってなんや?誰にとって正しいんや?「認知が歪んどる」なんて台詞を聞くと、吐きそう・・・いやいや、既に吐いています(笑)。
治療者が望む何かになっていくことではなく、その人が、こうありたいと望むものになっていくことを考えていく姿勢は忘れたくないですね~。
ちえぞうさん。
返信削除そうなんです。「正しい認知」って一体何なんでしょうね。誰がそんなことを決めたんでしょう。
それに、僕は経験から言えるのだけど、無理に治してしまうと後でツケが回ってくるんです。
意識の使い方で気分を一気に持ち直す術を知っているのですが、そういう「治しちゃう」のはいかがななものかと思って今はほとんどやりません。「治す」のがほとほと厭になったのです。やっぱり、本人が向かいたい方向へ(潜在的にでもあれ)ちょっとだけ手助けするような作法が大事なんじゃないかと思います。だから、健康法なんかも「たいして効果を実感しない」ぐらいがいいんじゃないか、と思ってます。
だから、認知行動療法が成果を挙げているのは当たり前で、「治すのは簡単」だからです。そして、「再発率八割」です。ほんとバカにしてるんじゃないか。「治す」のだったら投薬でも変わらないじゃないか、と思う。問題は手法とかじゃなくて心構えの方です。
野口さんは「治す」のが厭になって体育へ向かいました。それから、愉気をするときは「治そう」とか「良くしよう」とか思わずに無心で(天心と言います)行うべしと言っています。「治そう」という気持ちは邪念だと。片山先生は「動物を抱っこするときには何も考えませんよね」と言ってます。確かにそうです。
さてさて、精神医療領域はこの先どう舵をきっていくのでしょうか。