神に会いに(悪魔め、そこどけ)
苦難というものがどういう形を伴っているのかはわからないけれど、少なくとも「苦しみ」そのものを苦難と呼ぶにはふさわしくはなくて、「運動」が滞ってしまったときに、あるいは流れが止まってしまったときに、そこに悲しみのようなものが生じてきて少しずつ存在をむしばむことになるのだろうし、つまり、動けていればそれ自体が善きことであるし、そこから何かを起こせる、と思っています。 自分の力を活かさないことが最大の不幸だと考える人間にとっては、苦境はむしろそれ自体では不幸とはならずに、それに対する自分の立ち方が大きなウエイトを占めるわけで、そういうことは何度もの繰り返しになってしまうけれど、とにかく自分の「世界の捉え」さえしっかりしていればどこかに希望を見いだすことができる、と思っています。 「心のみ実在する」という野口先生の言葉を信じる人間にとっては、先を見る「想い」さえ湧いているのなら(物資的にどういう状況下であろうとも)生きていける、と思っています。 と、以上のようなことを、他でもない自分に言い聞かすのでした。「想い」さえ活きていてくれるのなら。動け。 竹内さん、どう思いますか? ―はい、それまーでよ(一同笑)