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3月, 2011の投稿を表示しています

神に会いに(悪魔め、そこどけ)

苦難というものがどういう形を伴っているのかはわからないけれど、少なくとも「苦しみ」そのものを苦難と呼ぶにはふさわしくはなくて、「運動」が滞ってしまったときに、あるいは流れが止まってしまったときに、そこに悲しみのようなものが生じてきて少しずつ存在をむしばむことになるのだろうし、つまり、動けていればそれ自体が善きことであるし、そこから何かを起こせる、と思っています。 自分の力を活かさないことが最大の不幸だと考える人間にとっては、苦境はむしろそれ自体では不幸とはならずに、それに対する自分の立ち方が大きなウエイトを占めるわけで、そういうことは何度もの繰り返しになってしまうけれど、とにかく自分の「世界の捉え」さえしっかりしていればどこかに希望を見いだすことができる、と思っています。 「心のみ実在する」という野口先生の言葉を信じる人間にとっては、先を見る「想い」さえ湧いているのなら(物資的にどういう状況下であろうとも)生きていける、と思っています。 と、以上のようなことを、他でもない自分に言い聞かすのでした。「想い」さえ活きていてくれるのなら。動け。 竹内さん、どう思いますか? ―はい、それまーでよ(一同笑)

みんなで暮らす

ツイッターというものがありますよね。これはネットの掲示板なんかでも話は同じだと思うのですが、それの一つの用途として、今現在の心情、感情、とにかく頭に浮かんだ事柄をパッと(まさに気の向くままに)自分の外側へ向けて発信する、という使い方があります。例えば、「ハラ減った」とか「○○うざい」とか。そういった類いの使い方。 これは要するに、リアルタイムで自分が感じたことをポロッと表出できるということです。ツイッターが身体性が高いというのはそういうことです。一日の終わりに(もしくはもっと長い単位で)自分の感情や思考を整理したときに、おそらく端数として切り下げられていたであろう(つまり、自分史には刻み込まれない)ファクターが逐一報告されているということです。当座の、すぐに過ぎ去ってしまうであろう感覚、後で冷静に考えればたいした意味も持たない要素、そんなものがわざわざ記録されていくから身体的だというわけです。だって、身体感覚とか感情って常に揺らいでいるわけじゃないですか。そういうのは、後で纏めてみると均されてタイムリーな感覚を失うけれど(日記にするとそうなる)、つぶやいていると、そういう浮上してこないはずのデータが残ってしまうわけです。それで身体的であると(ちょっと説明まつがってると思いつつ)。これは内田樹さんが仰ってました。多分僕、あんまり解ってないんですけどね。とにかく、いいように捉えると身体性が高いということになってくる。 でも僕は思うのだけど、例えば今独りで寂しいとして、「サビシイ」とネット上でつぶやくことに一体どんな効用があるのだろうか。その時々の感情や思ったことを他人に伝えたいという感覚はよくわかります。すぐ電話とかしたくなるし。それから、道路を自転車が四列並んで走っていて(しかもその四台会話しながら)逆方向からすれ違う余地がまったくない、なんて走行を目の当たりにしたときは(ホントにあったんですよ)、「ウザイ!」と言いたくなる。できれば誰かに「ねぇねぇ」って愚痴りたい。だけれども、そういう一時の「精神的突起」は普通、自分の裡に留めておくものです。それが大人の態度というものです。いくら親しい人であろうと、その人が恋人でない限り「あばたもえくぼ」とはならず相手に対して不快な感情を持つことは当たり前です(ですよね)。たまには「ウザイな」と思うことだって正直ある。でもや...

パーマカルチャー

自己実現とは、今の自分が思っている目標を設定するわけですね。つまり、今の自分が見える範囲で目標を設定し、それに向かって意味づけをするわけですが、今の自分に見えている目標なんて貧弱なもんじゃないですか。 実際には、何かやっている間に目標なんて変わっていくわけですよ。だれかに会って、「ああ、こういう生き方もあったのか」とか「こういうことが大事なんだ」と、自分が当初、視野に入れていなかった新たな目標ができてくるんです。絶えず立て換えていく。目標って、そういうもんだと思う。いいかえると、あまり目標を先に立てて、「これだけだ」と思うのは、逆に自分を縮めこめてしまうんです。 以上、鷲田清一『哲学クリニック』pp32-32。 なんや同じこと言ってるや、と思ってウキウキして読んでました。何回か似たようなこと書いてますからねー。「今の自分に見えている目標なんて貧弱」という所が素敵ですよね(ですよね?)。こういうのを臨床哲学だって言うんだったら、僕だって哲学できそうです。なんや毒にも薬にもならない(観念的)哲学ばっかりが学術的価値を帯びがちですが(多分ね)、こういう地べたを這うような哲学があるかと思うと少しホッとします。あるいは人によっては、「そういうのは人生哲学っていうんだよ」と仰せるかもしれませが、それはそれでなにか違和感が残りつつ。 なにはともかく、いい意味でのプラグマティズムの復権って大事なんじゃないだろうかと思う次第です。学校では「マジな話」、大事なことって全然教えてくれません。まぁ、勝手に学べよってことになるわけですが。