みんなで暮らす
ツイッターというものがありますよね。これはネットの掲示板なんかでも話は同じだと思うのですが、それの一つの用途として、今現在の心情、感情、とにかく頭に浮かんだ事柄をパッと(まさに気の向くままに)自分の外側へ向けて発信する、という使い方があります。例えば、「ハラ減った」とか「○○うざい」とか。そういった類いの使い方。
これは要するに、リアルタイムで自分が感じたことをポロッと表出できるということです。ツイッターが身体性が高いというのはそういうことです。一日の終わりに(もしくはもっと長い単位で)自分の感情や思考を整理したときに、おそらく端数として切り下げられていたであろう(つまり、自分史には刻み込まれない)ファクターが逐一報告されているということです。当座の、すぐに過ぎ去ってしまうであろう感覚、後で冷静に考えればたいした意味も持たない要素、そんなものがわざわざ記録されていくから身体的だというわけです。だって、身体感覚とか感情って常に揺らいでいるわけじゃないですか。そういうのは、後で纏めてみると均されてタイムリーな感覚を失うけれど(日記にするとそうなる)、つぶやいていると、そういう浮上してこないはずのデータが残ってしまうわけです。それで身体的であると(ちょっと説明まつがってると思いつつ)。これは内田樹さんが仰ってました。多分僕、あんまり解ってないんですけどね。とにかく、いいように捉えると身体性が高いということになってくる。
でも僕は思うのだけど、例えば今独りで寂しいとして、「サビシイ」とネット上でつぶやくことに一体どんな効用があるのだろうか。その時々の感情や思ったことを他人に伝えたいという感覚はよくわかります。すぐ電話とかしたくなるし。それから、道路を自転車が四列並んで走っていて(しかもその四台会話しながら)逆方向からすれ違う余地がまったくない、なんて走行を目の当たりにしたときは(ホントにあったんですよ)、「ウザイ!」と言いたくなる。できれば誰かに「ねぇねぇ」って愚痴りたい。だけれども、そういう一時の「精神的突起」は普通、自分の裡に留めておくものです。それが大人の態度というものです。いくら親しい人であろうと、その人が恋人でない限り「あばたもえくぼ」とはならず相手に対して不快な感情を持つことは当たり前です(ですよね)。たまには「ウザイな」と思うことだって正直ある。でもやっぱり、それは口には出さない。自分の内部で抑えておく。そんなことを発表したって場が剣呑になるだけだから。なんにもいいことはないのだから。
だけれども、ツイートすれば、それは出してしまうことができる。そしてそれは、現実の場に放たれるわけではないので、一見なんの害もないように見える。でも本当にそうだろうか。
秋葉原の通り魔事件の場合、ネットの掲示板にレスポンスがなかったことが彼の孤独をいっそう引き立て、犯行へ押しやった一つのファクターになったということはよく知られています。彼は当初、掲示板に自分の思い(というか呪詛)を綴り、それに反応をもらうことで精神的に楽になったと語っていたとのこと。しかし、反応がなくなったので「自分はネット上でも孤独」だと。そういうことの顛末でしたよね。彼の述懐によれば。
僕は、ツイートとそれに対するレスポンスという非常にカラカラの(人間味を欠いた)、中途半端なコミュニケーションが結果的には彼を少しずつ疲弊させていったのではないかと思っています。まぁ、みんなそう思ってると思うんだけど。こういうことを言ってはまずいと思うけれど、もし彼がネット掲示板で一時の安息を得るという、そんな行為に走っていなかったなら、あの事件は起きていなかったのかもしれない(もちろん、そんな「もし」とかいう記述はなんの有効性も持たないわけですが)。
なにごとにせよ、外に出した方がいい吐き出した方がいい、と思われているご時世(デトックス!?)ですが、ときには自分の内側に処理しきれない何かを抱え込んでおくということも大切なのではないか、と思ってこういうことを書いているわけです。煮え切らない感情とか、上手く行かない怒りだとか、どこかに出してしまえたら楽なんじゃないかと思うのだけど、そういう「暗い処」を自分に抱え込んでおかないといけない場合も多々あるのではないか。もちろん、悲しいときは思い切り泣くべきだし、思い切り泣ききればいい。だけど、それは時と場所を選ぶべきだし、その涙を暖めてくれる誰かが周りに誰もいないのだったら、逆にどんどん自分を追い込んでいくことにならないだろうか。ネット上の掲示板なんて、「気分のいい人格」が存在するような場所ではないと思うけれど。僕はああいう場所にいって生身の僕でいられるとは思えない。きっと、「悪い自分」ばっかりが集っているのじゃないかと勘ぐってしまう。「顔」が見えないとそうなりますよね。そういう所に自分の弱さをさらけ出してしまうのはとっても危険なことじゃないだろうか。
できることがどんどん増えるからこそ、使う側の僕らが大事になってくるんであって、ちゃんと自制しなきゃいけない、とね、思います。そういう、自分の節制が重要になってくるという意味では、本当に「身体的」なのかもしれない。
だから僕も、ネットで一行ぐらいの罵りをしてみたいという衝動にときどき駆られるわけですが、なんとかかんとか抑えているのです。
えーと、なんの話だっけ…。昨日の晩ご飯はフグだったという話だっけ。いや違う、あれはサバだった。
試しに…。
スティーブジョブスよ、キーボード打ちにくくないかい?
これは要するに、リアルタイムで自分が感じたことをポロッと表出できるということです。ツイッターが身体性が高いというのはそういうことです。一日の終わりに(もしくはもっと長い単位で)自分の感情や思考を整理したときに、おそらく端数として切り下げられていたであろう(つまり、自分史には刻み込まれない)ファクターが逐一報告されているということです。当座の、すぐに過ぎ去ってしまうであろう感覚、後で冷静に考えればたいした意味も持たない要素、そんなものがわざわざ記録されていくから身体的だというわけです。だって、身体感覚とか感情って常に揺らいでいるわけじゃないですか。そういうのは、後で纏めてみると均されてタイムリーな感覚を失うけれど(日記にするとそうなる)、つぶやいていると、そういう浮上してこないはずのデータが残ってしまうわけです。それで身体的であると(ちょっと説明まつがってると思いつつ)。これは内田樹さんが仰ってました。多分僕、あんまり解ってないんですけどね。とにかく、いいように捉えると身体性が高いということになってくる。
でも僕は思うのだけど、例えば今独りで寂しいとして、「サビシイ」とネット上でつぶやくことに一体どんな効用があるのだろうか。その時々の感情や思ったことを他人に伝えたいという感覚はよくわかります。すぐ電話とかしたくなるし。それから、道路を自転車が四列並んで走っていて(しかもその四台会話しながら)逆方向からすれ違う余地がまったくない、なんて走行を目の当たりにしたときは(ホントにあったんですよ)、「ウザイ!」と言いたくなる。できれば誰かに「ねぇねぇ」って愚痴りたい。だけれども、そういう一時の「精神的突起」は普通、自分の裡に留めておくものです。それが大人の態度というものです。いくら親しい人であろうと、その人が恋人でない限り「あばたもえくぼ」とはならず相手に対して不快な感情を持つことは当たり前です(ですよね)。たまには「ウザイな」と思うことだって正直ある。でもやっぱり、それは口には出さない。自分の内部で抑えておく。そんなことを発表したって場が剣呑になるだけだから。なんにもいいことはないのだから。
だけれども、ツイートすれば、それは出してしまうことができる。そしてそれは、現実の場に放たれるわけではないので、一見なんの害もないように見える。でも本当にそうだろうか。
秋葉原の通り魔事件の場合、ネットの掲示板にレスポンスがなかったことが彼の孤独をいっそう引き立て、犯行へ押しやった一つのファクターになったということはよく知られています。彼は当初、掲示板に自分の思い(というか呪詛)を綴り、それに反応をもらうことで精神的に楽になったと語っていたとのこと。しかし、反応がなくなったので「自分はネット上でも孤独」だと。そういうことの顛末でしたよね。彼の述懐によれば。
僕は、ツイートとそれに対するレスポンスという非常にカラカラの(人間味を欠いた)、中途半端なコミュニケーションが結果的には彼を少しずつ疲弊させていったのではないかと思っています。まぁ、みんなそう思ってると思うんだけど。こういうことを言ってはまずいと思うけれど、もし彼がネット掲示板で一時の安息を得るという、そんな行為に走っていなかったなら、あの事件は起きていなかったのかもしれない(もちろん、そんな「もし」とかいう記述はなんの有効性も持たないわけですが)。
なにごとにせよ、外に出した方がいい吐き出した方がいい、と思われているご時世(デトックス!?)ですが、ときには自分の内側に処理しきれない何かを抱え込んでおくということも大切なのではないか、と思ってこういうことを書いているわけです。煮え切らない感情とか、上手く行かない怒りだとか、どこかに出してしまえたら楽なんじゃないかと思うのだけど、そういう「暗い処」を自分に抱え込んでおかないといけない場合も多々あるのではないか。もちろん、悲しいときは思い切り泣くべきだし、思い切り泣ききればいい。だけど、それは時と場所を選ぶべきだし、その涙を暖めてくれる誰かが周りに誰もいないのだったら、逆にどんどん自分を追い込んでいくことにならないだろうか。ネット上の掲示板なんて、「気分のいい人格」が存在するような場所ではないと思うけれど。僕はああいう場所にいって生身の僕でいられるとは思えない。きっと、「悪い自分」ばっかりが集っているのじゃないかと勘ぐってしまう。「顔」が見えないとそうなりますよね。そういう所に自分の弱さをさらけ出してしまうのはとっても危険なことじゃないだろうか。
できることがどんどん増えるからこそ、使う側の僕らが大事になってくるんであって、ちゃんと自制しなきゃいけない、とね、思います。そういう、自分の節制が重要になってくるという意味では、本当に「身体的」なのかもしれない。
だから僕も、ネットで一行ぐらいの罵りをしてみたいという衝動にときどき駆られるわけですが、なんとかかんとか抑えているのです。
えーと、なんの話だっけ…。昨日の晩ご飯はフグだったという話だっけ。いや違う、あれはサバだった。
試しに…。
スティーブジョブスよ、キーボード打ちにくくないかい?
Baba Riさんお久しぶりです。Twitterのつぶやき。内なる声のリアルタイムな吐露。吐露された瞬間的な思いに気づいた人が、またそこで感じた瞬間的な思いを吐露することの連鎖。新しいコミュニケートのスタイルなのでしょうね。
返信削除わたすは古いタイプの人間なのか、Twitterの世界にどうもにもついていきにくい。或いは、その世界に入ると、ゾッコン埋没してしまう危機を察した心が「やめときなされ」と抑制にかかっているのか、少し遠くから見ていたい感じなのです。
携帯電話がなかった若い時代を過ごしてきているせいか、すぐにメールや電話で相手を確かめられない時間をよく経験してきたように思う。待つことが、苦しく切ない時間であったりもする。でも、そこを耐えて生きることが、深く感じ、考えることにもつながっていたのかも知れないな・・・という風に思うこともある。
・・・なんて、言っているわたすですが、今はすっかり携帯を自宅に忘れてお出かけした日にゃ、不安になることも増えましたがね。
内なる思い。Twitterで発信する思いばかりでなく、一生、誰にも語らぬまま、そっと心の深い部分に残しておく、そんな思いもあってよいのではないかと、思うのでありました。
うーん、ツイッターって面白いとは思うんですけどね、流行に対して腰の重い人間としてはまだまだ様子見って処で。
返信削除放たなければ「思い」で済んだものが、放たれた途端に「呪い」になってしまうことってありますよね。その辺、自制しなきゃいけない。ツイッターだって、なんでもかんでもポロポロとこぼしているわけじゃないと思うんです。
テクノロジーに「使われる」ようになっちゃ駄目ですよね。僕らがしっかりと使わないと。