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8月, 2011の投稿を表示しています

赤いくつ、履いた君は

 現実を、目の前から一度ひっぺがして浮き上がらせる。現実が、べたっと一面現前に貼りついている状態ではなくて、むしろそれを引き剥がして不安定な状態にさらす。現実を「今ここ」に限定するのではなくて、複数多面的に起ち上げる可能性を嗅ぎとる。要するに、信じているものからいっぺん距離をとり、目線を引く。冷静になる。「見えているものをその背後から見る」。現実を自明なものにしない。 そういうのが、(内向的人間の)唯一の成長の仕方だと、僕は思っているんだけど。

Kimono〜魔女裁判にかけられたりしないかしら〜

期末レポートです。タイトルは「ロシアがたどこさ(宗教浪漫編)」でした。結論から言えば、最後は野口先生で落としてるんです。「自己の本質とは、自己を構成せんとする力なのだ」ってね。天風さんも言ってますね。「俺は力だ」って。かっこいい。 どうでもいいですけど、これは僕のレポート史上最高に脱線してるんです。ぜんぜん違う話をしてるんです。まぁいいよね。脱線させてそれをどっかにつなげる能力ってほんとに大事ですから。でもこういうのを「学術的な」レポートとして提出するのは、ちょっとどうかなって、自分でも思わずにはいられない。別に良心をとがめられたりはしないけど、子どもが遊んでたら叱られて「あうぅ」的なことですね。それにしても、いったい誰に向かって書いているんだろう。まぁ、二人ぐらい読んでくれてるのは知ってるんだけど…。  発表では、ロシアにおける宗教の現状やその大黒柱であるロシア正教の歴史などの概説に終始してしまい、それは要するに「教養講座」なのであって、全然面白い事にはならなかったと反省している(まぁ、それはちゃんと勉強しない自分が悪いわけだけど)。だからこのレポートではせめて、自分の考えたことを中心として組み立ててみたいと思う。ただ相変わらずの勉強不足であるから、考えるための材料は極めて不足していて、自分の頭で考えたそのほとんどが「ただの妄想」としかならない危険性も大いにあり、それはそれで恐ろしいのだけど、レポートで Wikipedia の要約のようなことをしても仕方がないのだから(それを読まされる方も辛いだろうし)、できる限り「自分勝手な」議論を繰り広げてみたいと思う。以上、前置き。  日本には、「いまいちキリスト教が広まらなかった」という歴史がある。このことは何を示しているのか。日本の場合そこには弾圧の歴史があるから事態をややこしくするのだけど、ではもし国家的主導者(この場合には江戸幕府将軍とかになるのだろうか)がキリスト教を擁護し信仰を推奨したとするならば、果たしてキリスト教はこの国でもっと大きな勢力となっていただろうか。もしくはそれは「乗り込んだ順」の問題なのかもしれない。キリスト教より先に仏教が人々の間にしっかりと根づいてしまっていたから、だからキリスト教にはすでに入り込む余地がなかったのだ、と。 しかしそれなら、おとなりの国韓国はどうなのだろう。そもそも仏教...

Pool〜そもそも自由なんてあるのかしら〜

  例によってレポートの季節がやってきました。レポートを書くのって、大変だったり簡単だったりします。大変なときはだいたい「よくわかんないもの」が出来上がります。これは難産でした。タイトルは「表現の自由について(そもそも自由なんてあるのかしら)」でした。ふー、疲れた。  どうでもいいけど、ご飯食べると身体ってちょっと硬くなりますよね。この感覚わかる人いるかな。 「表現の自由」ということは日本国憲法で保証されていて、もし出版にコードをかけるとすると自治体の条例などによって規制されることになるわけだけど(実際に、とある知事さんはそれにやっきになり)、それの是非はともかくとして、ひとまず僕らには原理的に表現の自由が与えられていて、極稀にそれが制限されるという実情がある。僕が疑問に思うのは、出版に規制をかける場合そこで議論の対象となるのはいつも「表現の自由」という点だけど、出版コードは本当に「自由」が争点なのか、 ということである。  出版に規制がかかるとき、それはほとんどの場合為政者側が「自らの統治に対して(あるいは自らの統治してしてるこの社会の秩序に対して)有害」という判断からなされる。そういう「自らの状況を不利にする」ものに対して出版を禁じるということが「自由」の侵害という論点に繋がるわけだけど、その「自由」だってそもそも為政者側が定めた「程度のもの」じゃないか、という気がする。憲法の条文を読めば「出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」となっていて、「自由」は「保障される」ものとされ、つまりは「保障する誰かがいる」わけで、その保障する為政者側が転覆するのなら「保障された自由」も消し飛ぶ理屈である。だったら、国家が転覆するような表現には、そもそも「自由の保障」はつかない。だから、治世に危険を孕む表現に為政者がコードをかけるのはある意味当然だと言えるし、憲法で定められている「自由」とは「我々の統治が安寧である限りは」ということになり(国家が機能しなくなれば「自由」を保障できなくなる)、そこには条件付きの「自由」がある。  そういう話は、例えばプロレタリア文学とか革命文学とか、「本当に」社会体制を改変しようと目論む表現の場合にはよくわかる。そういうケースでは、革命を志向する側とそれを阻止しようとする側の衝突の問題だから、ほとんど「自由」は関係ない。表現者の...