Kimono〜魔女裁判にかけられたりしないかしら〜
期末レポートです。タイトルは「ロシアがたどこさ(宗教浪漫編)」でした。結論から言えば、最後は野口先生で落としてるんです。「自己の本質とは、自己を構成せんとする力なのだ」ってね。天風さんも言ってますね。「俺は力だ」って。かっこいい。
どうでもいいですけど、これは僕のレポート史上最高に脱線してるんです。ぜんぜん違う話をしてるんです。まぁいいよね。脱線させてそれをどっかにつなげる能力ってほんとに大事ですから。でもこういうのを「学術的な」レポートとして提出するのは、ちょっとどうかなって、自分でも思わずにはいられない。別に良心をとがめられたりはしないけど、子どもが遊んでたら叱られて「あうぅ」的なことですね。それにしても、いったい誰に向かって書いているんだろう。まぁ、二人ぐらい読んでくれてるのは知ってるんだけど…。
発表では、ロシアにおける宗教の現状やその大黒柱であるロシア正教の歴史などの概説に終始してしまい、それは要するに「教養講座」なのであって、全然面白い事にはならなかったと反省している(まぁ、それはちゃんと勉強しない自分が悪いわけだけど)。だからこのレポートではせめて、自分の考えたことを中心として組み立ててみたいと思う。ただ相変わらずの勉強不足であるから、考えるための材料は極めて不足していて、自分の頭で考えたそのほとんどが「ただの妄想」としかならない危険性も大いにあり、それはそれで恐ろしいのだけど、レポートでWikipediaの要約のようなことをしても仕方がないのだから(それを読まされる方も辛いだろうし)、できる限り「自分勝手な」議論を繰り広げてみたいと思う。以上、前置き。
日本には、「いまいちキリスト教が広まらなかった」という歴史がある。このことは何を示しているのか。日本の場合そこには弾圧の歴史があるから事態をややこしくするのだけど、ではもし国家的主導者(この場合には江戸幕府将軍とかになるのだろうか)がキリスト教を擁護し信仰を推奨したとするならば、果たしてキリスト教はこの国でもっと大きな勢力となっていただろうか。もしくはそれは「乗り込んだ順」の問題なのかもしれない。キリスト教より先に仏教が人々の間にしっかりと根づいてしまっていたから、だからキリスト教にはすでに入り込む余地がなかったのだ、と。 しかしそれなら、おとなりの国韓国はどうなのだろう。そもそも仏教の伝来は韓国経由で入ってきたわけで(ずいぶん古い話になるけれど)、順序にすれば仏教のほうが先だ。それなのに韓国でもっとも多くの信仰を集めているのはキリスト教であって、布教の成否を順序で説明するのには無理があるようだ。また、南米とかアフリカ大陸とか、要するに植民地支配を受けた国においてもキリスト教は宗教的最大勢力となっていて、それらの国には元々固有というか既存の宗教があったはずで、つまりキリスト教は「後乗り」で成功を収めている。それを考えても、やっぱり順序はそんなに重要ではない。
ひどく雑な言い方をしてしまえば、民族性、あるいは民族的心性とでもいうべきもののほうがその国の宗教のあり方に大きく作用している、というのがまず一般的な捉え方になるのではないか。たとえ「民族性」や「民族的心性」というものが虚像だとしても。ぼくがその考え方に基づいてこれから先を書いていくのかどうかは別として、少なくとも皆、知らず知らずのうちにそのように思っているのではないか。
話をロシアへ。ロシアはキリスト教がとても強力に浸透している国。「なにを当たり前のことを」と思うかもしれないけれど、ロシアはソ連時代を経ているのだ。社会主義というのは基本的に宗教を否定する思想だから、当然ソ連時代にはキリスト教も弾圧を受けている。「それなのに」現在キリスト教が圧倒的な勢力を誇るのには二つの解釈ができて、要するに「社会主義でキリスト教が放逐されたのに不思議だよね」ととるか、「圧政ぐらいでは揺るがないぐらい人々の間にキリスト教が深く根づいていたのよ」ととるか、である。話を複雑にしたいのならば前者の「不思議ね説」を採用したいけれど、おそらく事実に基づくなら、キリスト教による共同的団結があまりにも当然のものとして浸透していたから、国家の政治体制が変化したぐらいでは人々の宗教意識やそれに基づく共同体はその形を保っていられて、要するに、キリスト教は弾圧されても全然へこたれていなかった。
話をもう一度戻すと、僕の考えでは、キリスト教が国家的宗教となっている国にも二種類の国があって、一つは意識的・戦略的にキリスト教を取り入れている国で、もう一つは、植物には水が必要なようにキリスト教が人々が生活していく上で「決して欠いてはいけないもの」だから否応なしにキリスト教が根付いてしまっている国である。これは完全に僕の勝手な思い込みである。だけどそんな気が(なんとなく)する。もう少し勝手な思い込みを進めれば、例えば南米なんかだと「別にキリスト教じゃなくてもいいのよね、ホラ、都合よく入ってきたから、キリスト教」みたいな雰囲気がある。また、韓国もキリスト教を「採用している」という雰囲気がしてしまう。 でもロシアはそうじゃない。少なくともソ連時代の経緯を踏まえるならば、「キリスト教以外考えられないのよ、わたしたち」である。比喩で言えば、「キリスト教を装備している」か「そもそもキリスト教的に身体が構成されている」かということで、ロシアはきっと後者だ(そういう腑分けが許されているなら)。
だから何が言いたいのかというと非常に困るのだけど、ならばなぜそのような国がキリスト教を捨てて革命に燃えたのか、という問いも設定できる。僕の考えでは、キリスト教的であるということ自体がそもそも革命的要素を含んでいて(だから自身を破壊する危うさを同居させている)、だからラディカルにキリスト教的である国ほど革命を現実に起こしやすいのではないか。要するにキリスト教って、全てが一変するとか、天変地異とか、そもそも教義だから。そんな単純なものじゃないよ、という気もするけれど。
ここから何かを導くとすると、人間というのは、自分が作ったオリジナルが必ずしも自分に適しているとは限らなくて、どっかから持ってきた借り物の方がしっくりくる場合が多々ある、ということじゃないか。キリスト教だってヨーロッパから持ってきたわけで、それならローマ人がものすごい信心厚いかというとそんな気はしない。ロシア人のほうが真面目そうである。音楽なんかでもそうだけど、自分の作った音楽なんかとても聴けたものじゃない、と思う。他人の作った音楽のほうが心地よい。そういうことを考えると、僕らはいろいろなものを自分の身の組成に合うようにべたべたとくっつけながら生きているのだとつくづく思う。それが自分にぴったりとはまった時の幸福といったら他に比べようもない。だからロシアは、宗教的には非常に幸福な体験をした(している)のだと、ある意味では言えなくもない。
アイデンティティというものがあるならば、なにをくっつけて生きていくかという、その選択の志向性にこそあるのではないか。
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