Pool〜そもそも自由なんてあるのかしら〜
例によってレポートの季節がやってきました。レポートを書くのって、大変だったり簡単だったりします。大変なときはだいたい「よくわかんないもの」が出来上がります。これは難産でした。タイトルは「表現の自由について(そもそも自由なんてあるのかしら)」でした。ふー、疲れた。
どうでもいいけど、ご飯食べると身体ってちょっと硬くなりますよね。この感覚わかる人いるかな。
「表現の自由」ということは日本国憲法で保証されていて、もし出版にコードをかけるとすると自治体の条例などによって規制されることになるわけだけど(実際に、とある知事さんはそれにやっきになり)、それの是非はともかくとして、ひとまず僕らには原理的に表現の自由が与えられていて、極稀にそれが制限されるという実情がある。僕が疑問に思うのは、出版に規制をかける場合そこで議論の対象となるのはいつも「表現の自由」という点だけど、出版コードは本当に「自由」が争点なのか、
ということである。
出版に規制がかかるとき、それはほとんどの場合為政者側が「自らの統治に対して(あるいは自らの統治してしてるこの社会の秩序に対して)有害」という判断からなされる。そういう「自らの状況を不利にする」ものに対して出版を禁じるということが「自由」の侵害という論点に繋がるわけだけど、その「自由」だってそもそも為政者側が定めた「程度のもの」じゃないか、という気がする。憲法の条文を読めば「出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」となっていて、「自由」は「保障される」ものとされ、つまりは「保障する誰かがいる」わけで、その保障する為政者側が転覆するのなら「保障された自由」も消し飛ぶ理屈である。だったら、国家が転覆するような表現には、そもそも「自由の保障」はつかない。だから、治世に危険を孕む表現に為政者がコードをかけるのはある意味当然だと言えるし、憲法で定められている「自由」とは「我々の統治が安寧である限りは」ということになり(国家が機能しなくなれば「自由」を保障できなくなる)、そこには条件付きの「自由」がある。
そういう話は、例えばプロレタリア文学とか革命文学とか、「本当に」社会体制を改変しようと目論む表現の場合にはよくわかる。そういうケースでは、革命を志向する側とそれを阻止しようとする側の衝突の問題だから、ほとんど「自由」は関係ない。表現者の表現だって「反体制」なのであって、そもそもの「体制」がなければ成り立たない表現で、そういうのを「自由な表現」とは呼びがたいと思う。権力に異を唱える自由とか言えばそれはそれで「自由な表現」なのかもしれないけど、それはもはや「表現」ではなくて「企て」なのだし、何かに異を唱えるということにはそもそも「自由な表現」という形容が似合わない。要するに「反対意見は自由な表現か」という問題なのだけど、これに関しては「自由」という言葉の定義によるだろうし、少なくとも自分は「自由とはカクカクシカジカ」と論じるつもりはないから、あまり深くは立ち入らない。個人的な感覚に依るなら、反対意見は自由な表現ではない、と思う。もちろんこれには条件があって、「元になる意見がそもそも叫ばれる必要もないほどにその意見が全員周知されている」状態での疑義ならば、それは「自由な表現」という気もする。だから「地動説」は「自由な表現」だと誰もが思う(今は)。だけど、なんにせよ主張が叫ばれたのなら、それに対する反論は常に付き纏うし、それはただの「否定」で独創的ではないし、「自由な表現」とは呼べない、のではないか(と思う)。でもそれは当たり前の感覚か。
疑問に話を戻せば、「児童ポルノ」とか「政権を打ち倒すことを企んでいるわけではない」表現のケースである。為政者側が児童ポルノにコードをかける理由はよくわからないけど(一応理由自体は知っていてもそこに至った彼らの思考に納得ができるかは話が別)、出版社側の「表現の自由」の持ち出し方も微妙。出版社側はもちろん、もっと過激な表現にコードがかかっていることを知っているはずで(例えば表紙にモザイクのかかっていない性器を描くとか)、「際どいゾーン」も熟知しているはずである。つまり出版社だって(かなりのレベルで)コードを遵守しているわけであり、だったらばなぜ児童ポルノのケースに限って「表現の自由を」を主張するのだろうか。「表現の自由」を叫ぶのなら、あらゆる性表現に関してそれが叫ばれるべきだろうし(でも、「街角で全裸の女性の写真をヘリコプターで散布させろ、自由を守れ」という意見は出ない)、つまり彼らは「表現の自由」の制限にすでに従っているし、それが建前だということも知っている。それなのに児童ポルノに限って「表現の自由」が侵害されていると主張する。もうずいぶん侵害されてると思うけど。
要するに出版社だって「自由」を主張しているのではない。「グレーゾーンはマニアに人気あるんだよ」とか、「政治家が商売に口出しするな」とか、そういう利益のためだったり政治への反発だったりという側面での異議申し立てなのだろう。つまり「自由」なんて論争のためのリーサルウェポン(というか唯一のすがりどころ)みたいなもので、そういうことを考えれば、本当に「表現の自由」のために争われた戦いなんてほとんど稀なんじゃないか、という気がする。
少なくとも「児童ポルノ」と「表現の自由」は(本音の部分では)ほとんど関係がない、というのが僕の考えである。「ここまではOKでこれ以上はダメよ」というゾーンの取り決めは、交渉とか示談であって、「自由」とは繋がりようがない。あるいは「自由」ってそういうものなのよね、ということなのかもしれないけれど。「自由っていうのは限られた中にしか存在しなくて、だからその制限の中で領土を拡大することが自由の獲得なのよ」なんて。でも少なくとも、出版社に対して「自由って言っても、あんたらしっかりモザイクかけとるやん」と誰かがつっこむべきだと思う。
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