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冷蔵庫になんて入れないで

米を変えました。 普通に近所のお米屋で買ってきたんです。今までっつーかここ半年ぐらいは、いわゆる有機栽培っていうんですか、減農薬でその後の品質管理も徹底してみたいな、割と価格も張る米を食べてたんです。ネットで定期購入したり近所のオーガニック食品のお店で買ったり。 でもあんまりよくなかった。どことは言わないけど、特にネットで結構有名なあそこの米は全然よくなかった(お店で買ったのはそんなに悪くなかったです)。ただでさえ体調悪くて寝てばっかなのに、その米を食べてる間は輪をかけてひどかったです。半年ぐらい。む、それ以上か。 その間、浸水の時のラップの種類だとか、おひつは水で洗ったほうがいいのかお湯で洗ったほうがいいのかだとか、米を保存する容器だとか置き場所だとか、土鍋は乾かした後どうするんだとか、とにかく細かく細かくあらゆることに気を使ってきた(そして大概うまくいかなかった)わけです。 でもまぁ米を変えると、そういうのは「もーいいや」という気分になってきまして、よく考えたら、有機栽培のに変える前にもここで米を買っていて、その時はそんなにこだわって米炊いてなかったなーと思い出す次第。ラクはラクですな。だってもうホントに頭痛かったもの、細かところ気にするの。 とはいえ逆説的だけど、これでようやく細かいところをキチキチと詰めていける(?)。だって、細かいところを気にしないで済むならそれはそれでいいんだろうけど、多分それじゃ済まないし、なにより大事なのって全部細かいことなんだし。実際、「そんなことで?」という小さな差異が圧倒的な仕上がりの違いを生みます。別に味とかじゃなくても翌日の体の具合とか。もちろん、こういうことは疲れるとか面倒臭いとかバカバカしいとか、そういう理由で全部大雑把で行くというのもひとつの正解なんでしょうけど。 ということで、「まーいいや」と思ってんだから、そんなに苦しまなくても試行錯誤できるんじゃないかなーという感じでしょうか。 でもほんと、(玄米の)炊飯に関してはいろいろな事がわかってきたような。そして時々、それまでの前提がガラガラと崩れ全てがふりだしになって、またあれはあれで正しかったとか、そういうことばっかりですっごく泣きたくなってくるんです(電柱に抱きついてオロオロと泣きました。うそです)。だって1年半ぐらいほぼ毎日、必ずどこかを...

右も左も教えてくれない

YMOの「Wild Ambitions」ですね。歌詞は例によって細野さん。日本語。和訳。たぶんこういうこと以外できそうにないので、精一杯の努力をしてるわけです(えらい)。 この歌詞を訳すこと自体は中学生でもできそうなものですが、解釈や表現の仕方で全然違った出来上がりになりそうです。というわけで、ずいぶん勝手で強引な、いつも通りの自己満足ですよ。 YMO期の魅力的な点のひとつとして、細野さんが「こういう詞」をちらほら書いたりするということが挙げられます。あくまで個人的な意見ですけど。 この後しばらくして細野さんはアンビエントの海に飛び込んでいくことになりますが、その助走としての苦悩というか、自分の音楽が向かう先を模索して手探りを続ける様子、またその有様を反映した精神の状況、自分の中に、あるいは別のどこかに深く沈潜していく心理、そんなこんなが垣間見えるような気がします。 こういった人たちを見ていると、「苦悩」というのは「生きるのが嫌になる」とかそういうことではなく、もっと先へ進むための、自分のポジションを押し動かすための「溜め」なんだと思えてきますね。そういう意味では、アスリートとか芸術家の苦悩って健全なものである場合が多い。北島康介の苦悩とか。 まぁ、どうやっても全然生きることが嫌にならないわたしの言うことじゃない。 えーと、もとの英詞は他のとこで。 すぐに分かると思いますが、何かを追い求める求道者とその目指す境地、あるいはその場所に到達した先人。そんなイメージですよね。細野さんがどちら側なのか、あるいはその両方なのか、そこら辺はどうなんでしょう。 僕もきっと荒野を駆けているんだ。さしあたっては横浜に行きたいです。 前置き長いですね。 あ!あーっ。JASRAC?大丈夫。消す(予定)。 a あなたの場所へと向かっているところです 荒野を駆け抜けているのです あなたは右も左も教えてくれないから わたしは荒野を駆けているのです だからわたしの名前を呼んでください どうか名前を呼んでください わたしは荒野を駆け抜けています b あなたの元へ向かっています この荒地を駆けてゆきます あなたは右も左もわからないから わたしはこの荒地を駆けてゆきます だからわたしの名前を呼んでください どうか名前を呼んでく...

魔法もつかう

そういやそうと、糸井さんがTwitterで「コピー塾」をやりはりまして、僕としては、終わったからもういいやでは済まず、在庫がいくつかあるもんで、ここに置いておくわけです。はんなりはんなり。 テーマは「人間」。投下したのも書いときますー。 「魔法もつかう」 「50年間のおしゃべり」 「ほしの裏っ側と」 「コイシテルン・ミュージック」(細野さんの「Coincidental Music」のもじりですね) 「あの子もわたしの子」 「LIFE」 「地上の平熱」(他の方の作品を参考に) 「変なの‼」 「ひとりを飛び越えておいで」(こちらは「時を飛び越えておいで 世界の外で会おうよ」というフレーズのもじり。「Lotus Love」) 「不思議な願いごと」 「なにしろ喰らう」 「君がよ」 「かわいい、しわ」 『萬流コピー塾ツイッター版』第0回の詳細は こちら これぞ開かれたSNSの真骨頂という感じでした。誰でもできます、どこでもできます。今後も不定期で続くようなので、気が向いた方はぜひ。ハッシュタグは#itomanpi はんなりはんなり!

ありえないほど腟カンジダ

「会いたくて会いたくて震える」という歌を口ずさみながら、彼ら(彼女ら)は一体何を考えているのでしょうか。 遠いあの人のことを想っているのか、あるいは懐かしく美しい(そして恥ずかしい)記憶を胸の奥から引っ張り出しているのか。強者に至っては、3次性を持たない(ハズの)架空の嫁を瞳の奥に映しているもしれませんね。さらに現代社会の実相を考慮するならば、留守番中に惨状を築き上げているであろう(全身フサフサの)子どもたちに思いを馳せる、というのがもっとも可能性が高いでしょうか。 まぁとにかく、それが現実であろうと妄想であろうと、人(獣)姿が浮かぶだけマシというもの。 僕が思うに、彼らは何も考えちゃいないし何も思っていない。ただただ単純に言葉が放り出されているだけ。そう、それはただの空気の震えなのだ(@ババリメデスBC.65~BC.20)。 でもそれは彼らが悪いワケじゃない。悪いのは歌の方だ。 その歌が流行っていると聞いた時、それは毎度のことだろうと思いましたよ。いつものアレだと。でも今は、それに対して特別な意味を発見することもできそうです。これはひょっとしたら何かの始まりではないのか、これは今後の流れを作る第一波として世に登場したのかもしれない、と。 文章を書く事とネーミングする事はとても似ている気がします。どちらも、自分の発想によるびっくりするような跳躍が求められる。規定の路線を通すのではなく可能な限り可能性の極北を選択し続ける。そしてまた、そのリズム・流れにはいささかも不自然な響きがないよう、誰の耳にもすんなりと溶けこんでいくよう紡ぐ。そういう「繋がり」を見つける作業。だから「金閣寺まりも」を考えた細野さんってやっぱり偉大だよ、って言いたいんだろうね。 でもひょっとしたら、「跳躍」はそこまで必要ではないのかもしれない。当たり前の言葉を当たり前に並ばせて、それが他人には吐けない自分の言葉になれば一番素晴らしいのかもしれないしね。 とにかく、件の歌です。全国ネットでバンバン流れ、mixiコミュニティははち切れんばかりに膨らみ、「共感を呼ぶ歌詞」なんていう報道まで登場してるワケだから、いかにテレビ離れが進行する昨今でも「知らない」なんて言わせない。(玉入れ合戦じゃない方の)紅白にも出たんだもの。みんな歌うんだよね?え、歌わない?非国民!! さて再び。...

どこでもゆける

  名前と顔は初めて公表されたんだったか、なんか変な感じ。   世論がどういう方向を向いていたのかなんて全然知らないけど、大きくて目立ちやすい声は結構聞こえてた気がする。もちろんそれは一貫したトーンを保ってではなく時々思い出したように噴出するアレであって、まるで日々のストレスを吐き出しているみたいに幾重もの"憂さ"が感じられた。というか今でもありますか。   とりあえず事の是非をあれこれ言う気はないし、第一、僕も声の大きな人たちと同じように日和見だし自分の事で手を焼いてるし。なんも言う事はないよね。   差し当たって報道自体は中立的というか淡々と事実を伝えてるだけみたいだけど、スタジオでは脂を浮かせたあの人やあの人が、もはやつばを飛ばす必要もなくなり落ち着き払った口調で総括に取りかかるのでしょうか。ずいぶん早い気がするけど。   事件自体に着目することをひとつの目線だとすれば、もう一つ気にかかるのはそれに対する人々の反応の仕方。   なんでだろう、みんなとびっきり情が深くて他人に共感する力があるような発言ばっかりなんだけど。   どうしてあなた方は自分自身のことも感覚できないくせにそこまで感覚が届くの?どうしてあなた方は自分自身と交歓できないくせに他人に簡単に共感できるの?どうしてあなた方は吐き捨てたような発言に自信が持てるの?どうしてあなた方はそこまで簡単に断言することができるの?どうして……   あなた方の想像力は「加害者」にまでは及ばないのでしょうか?及んだって正当化できるものではないけど。   僕らが何か発言するとすれば、それにはまず日々の暮らしに歓びを感じてからするべきです。不満というのは、僕らの直面する面倒から生じるのじゃくなくて僕ら自身の状態から出てくる。もちろんどんな人にも厄介な事は降りかかるけれど、日々をきちんと楽しんで生きる人は目の前の厄介をどう切り崩すか (あるいは放っておくか、待機か)という主体的な思考の巡らせ方をしていて、難題があること自体に(否応なく)心を砕いているわけではない。 まぁ、いいや。そんなセミナー的講釈は。   少なくともいえるのは、あんたらなんかの想像力は大きく...

Tumble.com

  「あなたはどんな人になりたいか」なんて聞かれたら、まずは大きく顔を歪め、あるいは不意打ちに狼狽したふりをして、内心その質問の裏にある意図に辟易するに違いないよ。間違いないね。   だってそんなことを聞く人間は、こっちの答えなんかお構いなしに自己啓発的な説法を始めるものだし、その据わった瞳は僕がクタクタになってもそれと気づけやしないし。終いには、(たとえ到達しても報われない)自分の夢を語り始めるんだ、きっとネ。興味ないって、僕の貧乏ゆすりが語ってる。頼むから僕を放って置いて。   なんてアメリカ文学みたいな文章を書きたいわけじゃなくて、「どんな人間になりたいか」の回答だってある、という事。   社会では本来どんな人間が求められているのか。これはもう強く強調したいのだけど、力があるとか優秀だとか役に立つとかは二の次。本当に。というか、大抵の人は望んだって優秀になれやしないし、なれても大概邪魔なだけ。   きっと本当に必要な人は「その人の周りがなんとなくうまく巡っている」という人で、要するにあげまん、あげちんである。ちょっと宗教的な言い方をすれば、「周囲に善きものをもたらす人間」とかそんなん。別に大げさなことじゃなくて、「その人が入社してから上司が寛容になった」とかそういうことでも全然構わない。   確かにその人が原因かなんて特定できやしないだろうし、組織を発展させるアクションを起こしたわけでもない。だけどもむしろ、そういう瑣末で目につきにくい影響の方が大事よね、と。   そういう人のあり方は、「先天性」とか「雰囲気」とか「オーラ」とかで片付けられることが多いけれど、必ずしもそうとは言い切れないはずだと思う。「その人がその場にいる事によって周囲にどう影響を与えるか」というのは、その人と世界の関わり方を如実に反映するはずで、普通の感覚でも、抑鬱状態の人の周辺ではいろんな歪みや滞りが発生するとおもうでしょうよ。   そういうのはなにも病状を示している人に限った話ではなく、全ての人がそれぞれ個々の「状態」(例えば眠りは深いか、動くのは楽しいかとか)を生きているわけで、つまり支障なく日常生活を営む人であっても一人一人は異なった世界との向き合い方をしている、ハズ。 それは「存...