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9月, 2010の投稿を表示しています

壁の中へ

我々には「感情」という非常に人間的な”働き”がある、なんて言われることがあります。 この場合、人間的であるということは、動物性から脱却しているということを意味するのでしょう。 動物にも感情があることは(人間とは違った形態であれ)もう明らかでしょうから、そのことについてどうのというワケではありません。 問題なのは、感情というものは純粋に自然の産物なのではなくて、文化的意匠の内面的規律なのだということです。つまり、感情には特定の文化圏での共通了解という側面があるということです。 ところで、一口に感情といっても、それは内面の情動のことなのか表情などへの発露のことなのか、という問題もあります。ここでは、一応両者とも”意味を賦与させたならば”(後で説明します)「感情」と括っていいということにしましょう。 さて、僕たちは、感情というものは放って置けばそのまま出来上がる、そして出来上がり方はレディメードへの同化という形をとる(皆同じ種類の感情を保有する)と考えているふしがあります。 しかし、感情には、自然的側面と文化的側面があると考えておくといいと思います。 多くの文化では嬉しいときやおかしいときに笑いますが、人間の共同体で育てられなかった子どもはきっと笑えません。それは、「笑う」という出力が形成されなかったのと同時に、笑いと共にある内面的感情が適切な形に造形されないということでもあります。つまり、「うれしい」とか「おかしい」とかいう感情自体が無い。きっと、それになる前のうねりみたいなものは生来持っているのでしょうが、それが感情という意味へ形が整うことがない。 要するに(?)感情というのは、形が定まらない情動に意味を与えて”発散”させてあげる鋳型なのだといえるでしょう。そしてそれは後天的に身に付けるものである。だから、人によって微妙にグラデーションが異なったりする。 だから、大事なのは感情という形式のパターンをたくさん保持しておくことです。そうすると、多種多様な内面のうねりに、逐一適当な意味賦与ができる。”感情を割る”とはそういうことでしょう。だから、感情が豊かな人というのは、そもそも内面から多様な感情を産出しているのではなくて、同じような傾向をもった内面の動きを細かく割って処理する能力が高い人のことを指すのでしょう。内面の情報処理能力です。情報自体は大...

ニーチェ誤読

自分に対して怒りを覚えることって、ありますよね。 自分を許せないって時って、ありますよね。 そういう憤りを糧にして、自己超克を図ることって、方法論の一つです。 僕は、積極的にそういう方策を採りたくはないけれども、どうしてもそういう気持が起こってしまう時は、とりあえずその気持にも一理あることを認めてあげたいと思います。つまりは、怒れるときは徹底的に怒ってみるしかない。 原理としては、「今の自分の状態は、自分じゃない」と、現状の自分を自分として認めないというものです。つまり、現状の自分の状態と自我を乖離させてみる。そして、いったん切り離した自分の状態をめった打ちに否定するワケです。否定しておいてどうするのかというと、その否定は同時に高みを志向する力でもある。叩いておいて跳ね上げあるバネとかをイメージするといいかもしれません。 それで、現状の自分を乗り越えようとするわけです。 しかし、やってみるとわかりますが、これはどうも自分を高めていくための方法論ではないという気がしてくる。どちらかというと、「自分を殺したいほど憎んで、乖離させておかないと乗り越えられない心的状況がある」と言ったほうが近いかと思います。つまり、不甲斐ない自分を受け入れてしまうのは辛い(自分はこんなものだと諦念するのは辛いですね)ので、敢えて突き放して「今の自分は自分ではない」と宣言した方が”楽”だということです。 そして、さらにやってみるとわかるのですが、この対処法には心の強度が必要です。 自分をしっかりと突き放して見据える心的強度です。これが、自分から目を逸らしてしまうと「ま、いっか」と自分をなでなでと可愛がってしまうのです。許しがたかった自分を愛でてしまういうのは、非常に背理的行為で、はっきりいって気分の悪いものなのです。自分を肯定することと自分を可愛がることは全然別物のハズです。 要するに、我々には自分を憎むという過程を経ないと上手に乗り越えられない心的状態というものが時々現出するわけで、そういう時には一度徹底的に憤るということも大事なことなのではないかと思うわけです。まぁ、そういうことは、ないに越したことはない。 で、そういう危機を上手く乗り越えるとちょっと成長したかなとか思われて、「あのときの怒りはバネだったのだ」とか解釈しちゃうんでしょう。僕としては、怒らないと耐...

レンガを積む

人間が、毎日の生活を当たり前のように、また変わり映えもせぬものとして反復的に送ってゆくこと。そのコストはタダではない。そして、毎日を送るということは、実は当たり前ではなくとてつもなく”大変”なことである。これが、これから書くことの書き始め段階での結論予想です。 僕は、現状の日常生活を保っていくことに多大なコストを費やしている人間であります。具体的には挙げませんが、日常のケアの為に、金銭的な投資も時間リソースを割くことも、世間一般よりも大分高い水準で行っていると推測されます。というか、普通は(?)ただ日常を送ることにコストなど投じていない(と思っている)、のかもしれません。でも、考えてみて下さい。本当は生活中の一挙手一投足全てが日常を保持せしめるために機能しており、また同時に日常それ自体でもあるわけです(例えば食事)。僕がコストを費やしているというのは、「ケアのため」という意図が明確にされていて、生活動作一般とは別にカテゴライズされている行為が日常に(わざわざ)組み込まれているという意味です。何はともかく、僕は日常を経過可能なレヴェルで維持するために汲々としている人間なのです。もし僕がそのような日常への投資を「ぽいっ」と放棄してしまったならば、僕の日常はガラガラと崩壊する、もしくは著しく心身状態を低下してそれに見合った日常しか選び取れなくなる(例えば仕事ができなくなる)でしょう。だから僕は、なんら自分の状態に気を配ることなくつつがなく日常を送ることができる人というのが羨ましかったりします。まぁ、それは別の話。 とにかく、実際に日常の維持に緊張感を伴って生きている人間が言うのですから、日常とは大変な「大仕事」であることは間違いありません。「日常なんてなんもしないでも勝手に進行して、壊れるものではない」と思っていられる人は、水面下での「維持を更新し続ける」激動に対して無自覚で済んでいるということでしょうか。 さて、話を少しずつずらしていきましょう。先ほど僕は、「維持」のためにコストを投じていると書いたように思いますが、実は当たらずとも遠からずといったところで、「維持」というのは実際に駆動している働きの半面しか捉えていません。僕はもう一方では(というか本音は)、「変化」のためにコストを投じているつもりです。「生物は動的な平衡という効果のことである」というようなこ...

大阪万能ネギ 再掲

”状態を割る”ということです。身体を割ることの大切さは甲野善紀先生が説いているし、感情を割ることの大切さは田口ランディさんが言っていますが、ぼくは”状態を割る”ということも大事なんではないかと、思っていまして。 どういうことかというと、体調が優れない、気分が悪いときって、だいたい漠然と「悪い」わけです。それがもうちょい細かく、胸椎の何番が硬くなってて、だからこういう具合に悪くなってるんだなとか、あのことが心配でそれが負担になってるんだなとか、自分の状態を細かく割って把握することが大事なんではないか、という話です。「悪い」のだって、色々な悪さがあるわけです。それらの差異を認識することの重要性。 そういう風に、「悪い」が違いをもって立ち現れてくると、悪いときの処方のバリエーションが増え、適切になりやしないかと思うのです。どこがどう悪いのか。なぜ悪いのか。どうすれば良くなるか。こういう知恵を個人で持ってると、割と生きやすいのではなかろうか。もちろん、人間は総体として動きますから、どこを治しても、全体的に効いちゃう。漠然と「良く」なる。そういうことはありますが、ポイントを押さえておいた方が確実性が高いと思われます。 本当は、日常生活の中で自然と「悪い」が流れていって平常に復すというのが理想なのでしょうが、今のご時世なにかとケアだって必要なんです。 ”状態を割る”それは自分の声をつぶさに聴き分けるということです。

誇れるものといえば

あんまり、批判めいたことや攻撃的なもの言いはしたくないのですが、これぐらいは言っておいてもいいのではないかなと思うことがあります。 それはですね、大人になったら「ワ○ピース」を読むのはそろそろ卒業してもいいのじゃないか、ということです。いまや社会人をも巻き込んで、幅広い層から圧倒的な支持を受けているということは重々承知しておりますがゆえに。 そりゃあね、あのような物語を読むことによって励まされたり勇気付けられたり、つまりは「ワ○ピース」にマッチする人々の層だって存在するだろうとは思います。だけども、現状のような人口への膾炙を考えると、必ずしも「ワ○ピース」とは相容れない性質を持った人たちが、なにか無理やりという風に、それと併走する癖を身に付けているような気がするわけです。そういう人たちは、「ワ○ピース」を読むことによって心理的に追い立てられたり、気疲れしたりすることがあるのじゃないかと思ったりします。 なんででしょうね? 好きな人は好きで、いいと思います。疲れる人は、逃げてもいいと思います。 最後は、引用で締めます(出典は敢えて示しませんが)。 「本当の気持ちよさは静かで、無重力的で、手応えがないものです。」 つながってますか?大丈夫ですか?

富良野とコーヒー

「自分が見ている赤という色は、他の人にも同じような色彩として見えているのだろうか?」という子どものときに色々な人が思ったこと。 クオリアの話では、ないですよ。 色彩はどうか知りませんが、少なくとも、世界の”見え”は人それぞれ違う、でしょう。だって、野口先生は人の身体の悪いところが黒く見えた、というのですから。僕には人の身体はそういう風には見えません。だから、”見え”、引いては世界に対する感覚全てにおいて、人それぞれ異なる側面がある、と言っていいかもしれません。まったく違うと言うと誤るでしょうが、多少の個体差はある、はずです。 ここからが本題ですが、それで、子どもは何故にして最初の疑問を持つことになるのか。思うに、それは本態的に疑問ではない。実は、子どもは”見え”が人によって差異を持つことを無意識に「知っている」のではないか。「知っている」からこそそんな思念が意識に上ると言ってもいい。「知っている」のならそんな疑問が起こるはずはない、のかもしれませんが、そういう疑問をわざわざ(「知っている」にも関わらず)持つのにはそれなりの理由があるのかもしれない。 答えをややこしくしてみると、「日常をそつなく送るために必要な、他人と”見え”を共有しているのだという思い込み、それをメインモードとして堅固にするためにアクロバティックな方法としてあえて、”見え”は共通なのだろうか、という問いを意識してみる」ということが必要なのではないかと、ふと思ったのです。 日常生活は、他人と同じ世界を共有していることを前提にしないと成り立たない。でも、実は微妙に共有していない。そこら辺の矛盾に整理を着けるために最初の問いはあるのじゃないのかな、と思ったりしたのです。何故そういう問いが有効なのかというと説明できないのですが。 もしくは、二層の現実(日常[共有]と真相[差異])の軋轢によって生じた副産物とか、そういう解釈でもいいかもしれません。解り易い例で言えば、本音と建前のぶつかった発火熱とか。実際、大人になると現実(日常)の方が強くなってきます。 ただ、これは子どもだけの話ではないです。話を広げると、人間は、実はもの凄く「知っている」のだということに繋がっていくのです。 正解とかはないですから、後でなんか考えたらまた書きます。

再燃するまつぼっくい

”ウツ”についての話ですが。これはしばらく前に考えていたことであります。 ”ウツ”は一般的には感情・気分系統の問題として取り扱われることが多いと思います。理由もなく気分が塞ぎこんでしまうのが”ウツ”なのだという風に。それで、どう解決されるのかというと、「気分が晴れる」のが”ウツ”からの快復と見做される訳ですね。いや、昨今の精神医療領域でどういう解釈がなされているのかということは全然知らないですけれど、一般に流通する「感覚」としての話です。 僕は、これは随分乱暴なというか、お門違いな捉え方だと思っています。”ウツ”は、感情や気分に属するというよりも、知覚や感覚に属すると考えた方が、正解かどうかは知りませんが、適切な対処がしやすいと思います。 簡単に言ってしまえば、前者はフレームを上下移動する働きであって、後者はフレーム自体が変質する働きです。僕は、”ウツ”は感覚フレームの濁りとして捉えるのが臨床的に有益であるし、「正しいに近い」と思っています。だから、「気分が晴れる」なんて全然”ウツ”からの快復じゃないと、言いたいのです。 あまり多くのことは判りません。今言えるのは、”ウツ”からの快復は静かに、静かに、あるいは歓喜などとは程遠い場所で果たされるということです。 また、何か思いついたら書くかもしれませぬ。