ニーチェ誤読
自分に対して怒りを覚えることって、ありますよね。
自分を許せないって時って、ありますよね。
そういう憤りを糧にして、自己超克を図ることって、方法論の一つです。
僕は、積極的にそういう方策を採りたくはないけれども、どうしてもそういう気持が起こってしまう時は、とりあえずその気持にも一理あることを認めてあげたいと思います。つまりは、怒れるときは徹底的に怒ってみるしかない。
原理としては、「今の自分の状態は、自分じゃない」と、現状の自分を自分として認めないというものです。つまり、現状の自分の状態と自我を乖離させてみる。そして、いったん切り離した自分の状態をめった打ちに否定するワケです。否定しておいてどうするのかというと、その否定は同時に高みを志向する力でもある。叩いておいて跳ね上げあるバネとかをイメージするといいかもしれません。
それで、現状の自分を乗り越えようとするわけです。
しかし、やってみるとわかりますが、これはどうも自分を高めていくための方法論ではないという気がしてくる。どちらかというと、「自分を殺したいほど憎んで、乖離させておかないと乗り越えられない心的状況がある」と言ったほうが近いかと思います。つまり、不甲斐ない自分を受け入れてしまうのは辛い(自分はこんなものだと諦念するのは辛いですね)ので、敢えて突き放して「今の自分は自分ではない」と宣言した方が”楽”だということです。
そして、さらにやってみるとわかるのですが、この対処法には心の強度が必要です。
自分をしっかりと突き放して見据える心的強度です。これが、自分から目を逸らしてしまうと「ま、いっか」と自分をなでなでと可愛がってしまうのです。許しがたかった自分を愛でてしまういうのは、非常に背理的行為で、はっきりいって気分の悪いものなのです。自分を肯定することと自分を可愛がることは全然別物のハズです。
要するに、我々には自分を憎むという過程を経ないと上手に乗り越えられない心的状態というものが時々現出するわけで、そういう時には一度徹底的に憤るということも大事なことなのではないかと思うわけです。まぁ、そういうことは、ないに越したことはない。
で、そういう危機を上手く乗り越えるとちょっと成長したかなとか思われて、「あのときの怒りはバネだったのだ」とか解釈しちゃうんでしょう。僕としては、怒らないと耐えられないから怒るんだけどな。
自分を許せないって時って、ありますよね。
そういう憤りを糧にして、自己超克を図ることって、方法論の一つです。
僕は、積極的にそういう方策を採りたくはないけれども、どうしてもそういう気持が起こってしまう時は、とりあえずその気持にも一理あることを認めてあげたいと思います。つまりは、怒れるときは徹底的に怒ってみるしかない。
原理としては、「今の自分の状態は、自分じゃない」と、現状の自分を自分として認めないというものです。つまり、現状の自分の状態と自我を乖離させてみる。そして、いったん切り離した自分の状態をめった打ちに否定するワケです。否定しておいてどうするのかというと、その否定は同時に高みを志向する力でもある。叩いておいて跳ね上げあるバネとかをイメージするといいかもしれません。
それで、現状の自分を乗り越えようとするわけです。
しかし、やってみるとわかりますが、これはどうも自分を高めていくための方法論ではないという気がしてくる。どちらかというと、「自分を殺したいほど憎んで、乖離させておかないと乗り越えられない心的状況がある」と言ったほうが近いかと思います。つまり、不甲斐ない自分を受け入れてしまうのは辛い(自分はこんなものだと諦念するのは辛いですね)ので、敢えて突き放して「今の自分は自分ではない」と宣言した方が”楽”だということです。
そして、さらにやってみるとわかるのですが、この対処法には心の強度が必要です。
自分をしっかりと突き放して見据える心的強度です。これが、自分から目を逸らしてしまうと「ま、いっか」と自分をなでなでと可愛がってしまうのです。許しがたかった自分を愛でてしまういうのは、非常に背理的行為で、はっきりいって気分の悪いものなのです。自分を肯定することと自分を可愛がることは全然別物のハズです。
要するに、我々には自分を憎むという過程を経ないと上手に乗り越えられない心的状態というものが時々現出するわけで、そういう時には一度徹底的に憤るということも大事なことなのではないかと思うわけです。まぁ、そういうことは、ないに越したことはない。
で、そういう危機を上手く乗り越えるとちょっと成長したかなとか思われて、「あのときの怒りはバネだったのだ」とか解釈しちゃうんでしょう。僕としては、怒らないと耐えられないから怒るんだけどな。
Baba Riさん。こんばんみ。自分に対する怒り。確かにないに越したことはないのかも知れませんが、これまた、わたすにとっては、非常に縁の深い感情でして、なるほどなるほどと思いながら読んでいました。
返信削除「これでよし」と思い切れるときが、あるのだろうかと考えると、おそらくは死ぬまで無いのかも知れないなあなどと思っています。すなわち、わたしにとっては完結することのない世界なのだろうとも思っています。常に、不完全な存在として生きることが、この世の過ごし方(おおげさ)なのだろうと考えているからです。
怒りをバネに・・・と、自己否定の渦中にいる時には決して自然には思えないのですが、「今の自分ではダメなのだと、そう思って今を生きているのだから、その思いは心の中にあってよい思いとして、そうして生きていこう」と、そこはある種自己受容的な思いを成立させてみています。
若い頃との違いは「ダメな自分だなあ」と思う時の心の状態のようです。以前は、ただただ苦しく辛いだけだったのですが、年齢を重ねていくうちに、静かに(という表現がぴったりとも言えませんがそれに近いかな)そう思えるようになっていったように思う。
静かに「ダメ」な自分を眺めることができるようになってくると「だから・・・どうすっか?」「で、どうしたいんか?」「どちらの方向へ向かっていきたいんか?」とそちらにも意識が向かうようです。
許しがたいと感じるものは、許さないでええのではないでしょうか。しかしながら、「許さない」と感じ、考える自分についてはどうかと自己検討をしたときには「それでよし」とある種許容していかれるといいのかな・・・どでしょう。これは、「自己否定すること」と「自己否定をしている自分」を区別して考えてみることに繋がっちょる。
・・・どう思いますか~?
ちえぞうさん、
返信削除僕としては、ちえぞうさんの言う「許さないと感じ、考える自分」というのを、状態を切り放してみせた純粋な自己(幻想であれ)として考察してみたのでした。
そして、その自己は怒れる主体であり、認められていなければならない。そうでないと、自分がまさに寄る辺のないという感覚に襲われるでしょう。
あくまでも、否定しているのは自分の状態であって、自己ではないというところが肝かもしれません。