誇れるものといえば

あんまり、批判めいたことや攻撃的なもの言いはしたくないのですが、これぐらいは言っておいてもいいのではないかなと思うことがあります。
それはですね、大人になったら「ワ○ピース」を読むのはそろそろ卒業してもいいのじゃないか、ということです。いまや社会人をも巻き込んで、幅広い層から圧倒的な支持を受けているということは重々承知しておりますがゆえに。
そりゃあね、あのような物語を読むことによって励まされたり勇気付けられたり、つまりは「ワ○ピース」にマッチする人々の層だって存在するだろうとは思います。だけども、現状のような人口への膾炙を考えると、必ずしも「ワ○ピース」とは相容れない性質を持った人たちが、なにか無理やりという風に、それと併走する癖を身に付けているような気がするわけです。そういう人たちは、「ワ○ピース」を読むことによって心理的に追い立てられたり、気疲れしたりすることがあるのじゃないかと思ったりします。
なんででしょうね?

好きな人は好きで、いいと思います。疲れる人は、逃げてもいいと思います。
最後は、引用で締めます(出典は敢えて示しませんが)。
「本当の気持ちよさは静かで、無重力的で、手応えがないものです。」
つながってますか?大丈夫ですか?


コメント

  1. 「ワ○ピース」いろいろな所でよく見かけます。すんごく人気があるんだな~と知っているのですが、幸か不幸か(?)、なんと!!原作を読んだことがないのです。テレビのアニメーションをしばしお見かけしたことはあるのですが、なんと!!通り過ぎてしまいました。
     なので、作品については何とも言えないわたしですが・・・Baba Riさんの発言をじっくりと読んでいくと、世間の流れがそうだからとか、一般的、常識的にこうだからとか、なんかこう、自分ではよく考えないで受け入れてしまっているものがあるのかも知れないな・・・という思いが浮かんできました。そういう気持ちで、これまで「よし」と思ってきたことも、「よくねえんじゃね」と思ってきたものも眺めてみると、おやおや、違った捉え方ができてくるもんだなあなど、あらためて感じております。
     Baba Riさんの言葉から、思い浮かんでくることにあれこれと思いを巡らせていると、なんだか、ワクワクするような、いい感じがしてきます。
     素敵なブログなので、また、ちょいちょい参上させていただきますね。それではまた。

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  2. あのですね、僕らの世代というのは自衛的防衛ラインを張れぬまま(つまり悪しきものを撥ね退ける分別もなく)、みんなが読んでいるからという半ば強制的な吸引力でもって「ジャ○プ」と、そして「ワ○ピース」と引き合わされたのです。要するに「世代」なんですよ。
    そういう点から、わざわざ「卒業」なんて言い方をしたのです。どうせ、みんな一度は経験してるわけだから。
    それにしても、1回はまると抜け出すのって大変です。マスターベーションを覚えたサル的な?悪影響があるのに、止められない。
    すずぞう氏は「ワ○ピース世代」じゃないので、人格形成期に趨勢を支配していたマンガなどの呪縛からどうやって抜け出したかを思い起こすといいかもしれないです。
    あとは、近頃の若者の趣向を知っておくために「ワ○ピース」を読んでみるのもアリです。職務上、有意味かもしれませんよ。というか、あれだけのビック・ネームですから、ある距離感をもって接していれば(没入しないように読む)、社会を読むことにも繋がります。
    さて、すすぞうコメントについて言及すれば、僕が自衛的防衛ラインを張って、現在のような情報の取捨選択装置を形成したのはハタチぐらいかと思います。すずそうさんはいつ頃から「みんながそうだから」を卒業しましたか? 僕は、厳密にいえば、まだ卒業していない部分もあります。でも、多少の分別は身に付きましたハタチ、です。

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  3.  こんばんみ。Baba Riさんお元気ですか。わたすは、暑さにやられぎみです(苦笑)「ワ○ピース」そか~。Baba Riさんのおっしゃるように、一度は後学の為に読んでみるのもいいかも知れませんね。あとですっかりはまっているわたすと出会ったら、どうぞ爆笑しってやってください。へへへ。
     人格形成期かあ・・・てか、新人類のわたすとしては、こう見えても、人格形成中・・・え?無理がありすぎってか?はい。すんまそん。
     取捨選択装置かあ。はっきりとそれを意識化するのは難しいけれど、大学卒業後に社会人となって数年経った時に、再び大学に編入した時には「みんながそうだから」を超えて、かなり取捨選択装置が機能するようになっていたのだと思います。
     不足や不満とはちと違うのだけれども、何か今の在り方に違和感というのか、居心地悪さというのか、なんだかうまく言えませんが、なんか違う感とでもいうのか、心の奥ではずっとそれを感じていたように思う。若い時代はそれでも「みんなと同じ」でなければいけないような、それ以外はNGで、そうあってはならんような気に、意識的にも無意識的にもなっていたし、身近な人からもそれを求められていたしね。でも、時を重ね(いやいや歳かしらね)、多くの人との出会いや、出来事があるたび、何かしら感じたり考えたりしていくうちに、みんなと同じではなくても、世間的には王道と言われる道を外れていたとしても、わたすの心がそう求めているんなら、そのように生きてみてもええんじゃねえかなと静かに思えるようになり、だんだんと「みんながそうだから」卒業となっていったように思います。
     「へものわたす」は社会一般的、公のある特定の価値観では「負け」であったり「だみだこりゃ」であっても、へもはへもで、へもらしく(笑)、泣いたり笑ったり、怒ったり、人を憎んだり、苦しんだり、うまくいかなさに落ち込んでみたり、今日たったひととき出会ったあの人の切ない表情が少しでも笑顔となったのを見て、心震えたりしながら、そうして生きてきゃいいんかなと思うように、だんだんとなってきているように思います。
     ・・・もうお気づきだとは思いますが、まだ、そうなりつつの途上ですので、まだまだなり切れてはいまへんが・・・

     
     

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