壁の中へ
我々には「感情」という非常に人間的な”働き”がある、なんて言われることがあります。
この場合、人間的であるということは、動物性から脱却しているということを意味するのでしょう。
動物にも感情があることは(人間とは違った形態であれ)もう明らかでしょうから、そのことについてどうのというワケではありません。
問題なのは、感情というものは純粋に自然の産物なのではなくて、文化的意匠の内面的規律なのだということです。つまり、感情には特定の文化圏での共通了解という側面があるということです。
ところで、一口に感情といっても、それは内面の情動のことなのか表情などへの発露のことなのか、という問題もあります。ここでは、一応両者とも”意味を賦与させたならば”(後で説明します)「感情」と括っていいということにしましょう。
さて、僕たちは、感情というものは放って置けばそのまま出来上がる、そして出来上がり方はレディメードへの同化という形をとる(皆同じ種類の感情を保有する)と考えているふしがあります。
しかし、感情には、自然的側面と文化的側面があると考えておくといいと思います。
多くの文化では嬉しいときやおかしいときに笑いますが、人間の共同体で育てられなかった子どもはきっと笑えません。それは、「笑う」という出力が形成されなかったのと同時に、笑いと共にある内面的感情が適切な形に造形されないということでもあります。つまり、「うれしい」とか「おかしい」とかいう感情自体が無い。きっと、それになる前のうねりみたいなものは生来持っているのでしょうが、それが感情という意味へ形が整うことがない。
要するに(?)感情というのは、形が定まらない情動に意味を与えて”発散”させてあげる鋳型なのだといえるでしょう。そしてそれは後天的に身に付けるものである。だから、人によって微妙にグラデーションが異なったりする。
だから、大事なのは感情という形式のパターンをたくさん保持しておくことです。そうすると、多種多様な内面のうねりに、逐一適当な意味賦与ができる。”感情を割る”とはそういうことでしょう。だから、感情が豊かな人というのは、そもそも内面から多様な感情を産出しているのではなくて、同じような傾向をもった内面の動きを細かく割って処理する能力が高い人のことを指すのでしょう。内面の情報処理能力です。情報自体は大体みんな同じようなものでしょう。しかし、それを有意味な”形”に変換するときに、より細分化できた方がよい。適切な意味が与えられれば、それは昇華してくれるから。出力先がたくさんあった方が、流れ易いですもんね。
そういえば、「笑いながら怒る人」ってネタがありましたね。あれが滑稽なのは、我々が「怒りという感情は笑って表出しない」ということを相当内面的に規律しているがゆえでしょう。もしかしたら、生物学的必然性でもって笑いと怒りは矛盾するのかもしれないですけどね。
この場合、人間的であるということは、動物性から脱却しているということを意味するのでしょう。
動物にも感情があることは(人間とは違った形態であれ)もう明らかでしょうから、そのことについてどうのというワケではありません。
問題なのは、感情というものは純粋に自然の産物なのではなくて、文化的意匠の内面的規律なのだということです。つまり、感情には特定の文化圏での共通了解という側面があるということです。
ところで、一口に感情といっても、それは内面の情動のことなのか表情などへの発露のことなのか、という問題もあります。ここでは、一応両者とも”意味を賦与させたならば”(後で説明します)「感情」と括っていいということにしましょう。
さて、僕たちは、感情というものは放って置けばそのまま出来上がる、そして出来上がり方はレディメードへの同化という形をとる(皆同じ種類の感情を保有する)と考えているふしがあります。
しかし、感情には、自然的側面と文化的側面があると考えておくといいと思います。
多くの文化では嬉しいときやおかしいときに笑いますが、人間の共同体で育てられなかった子どもはきっと笑えません。それは、「笑う」という出力が形成されなかったのと同時に、笑いと共にある内面的感情が適切な形に造形されないということでもあります。つまり、「うれしい」とか「おかしい」とかいう感情自体が無い。きっと、それになる前のうねりみたいなものは生来持っているのでしょうが、それが感情という意味へ形が整うことがない。
要するに(?)感情というのは、形が定まらない情動に意味を与えて”発散”させてあげる鋳型なのだといえるでしょう。そしてそれは後天的に身に付けるものである。だから、人によって微妙にグラデーションが異なったりする。
だから、大事なのは感情という形式のパターンをたくさん保持しておくことです。そうすると、多種多様な内面のうねりに、逐一適当な意味賦与ができる。”感情を割る”とはそういうことでしょう。だから、感情が豊かな人というのは、そもそも内面から多様な感情を産出しているのではなくて、同じような傾向をもった内面の動きを細かく割って処理する能力が高い人のことを指すのでしょう。内面の情報処理能力です。情報自体は大体みんな同じようなものでしょう。しかし、それを有意味な”形”に変換するときに、より細分化できた方がよい。適切な意味が与えられれば、それは昇華してくれるから。出力先がたくさんあった方が、流れ易いですもんね。
そういえば、「笑いながら怒る人」ってネタがありましたね。あれが滑稽なのは、我々が「怒りという感情は笑って表出しない」ということを相当内面的に規律しているがゆえでしょう。もしかしたら、生物学的必然性でもって笑いと怒りは矛盾するのかもしれないですけどね。
外では雨がしとしと降っています。季節が変わっていきますね。Baba Riさんお久しぶりです。
返信削除先日も現場で、Baba Riさんとの間で話題となりましたが、思い出されるのは「アマラとカマラ」狼に育てられた少女の話です。内面の情動に気づき、さらにそれに対してぴったりとした感情を意識化できたときの、清々しい感じというのか、ストンと落ちるような感覚というのか、一皮むけて前に進むような感覚というのか、一種独特の体験があるように思っています。
「感情の形式というパターン」をきめ細やかに持っていると、心と身体の世界にとっては大変Goodであるのかも知れませんね。
感情が文化的な背景が絡んでるというのも、納得です。赤ちゃんの時には、快か不快かという非常にシンプルなものから始まっていて、外的な世界との相互交渉を通じて、次第に分化していくのが情緒面の発達ということなのでしょう。
Baba Riさんのお話は、いつも興味深く、テーマに対して真摯に考えて自分なりの言葉で表現される世界で、そういった所を楽しみにこのブログを読ませていただいています。これからの更新も楽しみにしています。
それでは、また~。
コメントありがとうございます。
返信削除秋になりましたね。
秋は、市川準監督が一番好きだった季節とのことです。
僕は、寒かったり暑かったりするのは割と好きです。
「おしゃれ」もできます。
では、また。