レンガを積む

人間が、毎日の生活を当たり前のように、また変わり映えもせぬものとして反復的に送ってゆくこと。そのコストはタダではない。そして、毎日を送るということは、実は当たり前ではなくとてつもなく”大変”なことである。これが、これから書くことの書き始め段階での結論予想です。

僕は、現状の日常生活を保っていくことに多大なコストを費やしている人間であります。具体的には挙げませんが、日常のケアの為に、金銭的な投資も時間リソースを割くことも、世間一般よりも大分高い水準で行っていると推測されます。というか、普通は(?)ただ日常を送ることにコストなど投じていない(と思っている)、のかもしれません。でも、考えてみて下さい。本当は生活中の一挙手一投足全てが日常を保持せしめるために機能しており、また同時に日常それ自体でもあるわけです(例えば食事)。僕がコストを費やしているというのは、「ケアのため」という意図が明確にされていて、生活動作一般とは別にカテゴライズされている行為が日常に(わざわざ)組み込まれているという意味です。何はともかく、僕は日常を経過可能なレヴェルで維持するために汲々としている人間なのです。もし僕がそのような日常への投資を「ぽいっ」と放棄してしまったならば、僕の日常はガラガラと崩壊する、もしくは著しく心身状態を低下してそれに見合った日常しか選び取れなくなる(例えば仕事ができなくなる)でしょう。だから僕は、なんら自分の状態に気を配ることなくつつがなく日常を送ることができる人というのが羨ましかったりします。まぁ、それは別の話。

とにかく、実際に日常の維持に緊張感を伴って生きている人間が言うのですから、日常とは大変な「大仕事」であることは間違いありません。「日常なんてなんもしないでも勝手に進行して、壊れるものではない」と思っていられる人は、水面下での「維持を更新し続ける」激動に対して無自覚で済んでいるということでしょうか。

さて、話を少しずつずらしていきましょう。先ほど僕は、「維持」のためにコストを投じていると書いたように思いますが、実は当たらずとも遠からずといったところで、「維持」というのは実際に駆動している働きの半面しか捉えていません。僕はもう一方では(というか本音は)、「変化」のためにコストを投じているつもりです。「生物は動的な平衡という効果のことである」というようなことを福岡伸一先生が仰っているハズですが、要は、僕らは一貫性を保持しながら変わり続ける存在だということです。「自分は変わっていない」と主張する人がいても、身体を構成する分子は常に入れ替わっているわけで、一定のスパンを経過すれば昔の身体の部品はひとつも残っていない、のです。これはよく知られた話ですね。しかし同時に、自分という存在は生まれてから絶えず連続した人格で、つまり一貫性を有して生活を送る。この両面を同時に(矛盾してるようだが)捉えておくこと、そしてそのようにな解釈が我々人間にとって必要であった、ということだろうと思います。

さて、もう少し。ここで僕が強く強調しておきたいことは、「維持」にせよ「変化」にせよ、それはどちらも動きの中から生まれてくるものだということです。「動的な平衡」というのはそういうことです。我々は常にドロドロとしたカオスを内側で蠢かしながら、それがなぜだか一定の秩序のうちに落ち着き続ける、そいう運動を内部に抱え込んだ存在だということです。もう少しラディカルに進めば、我々が内部に運動を抱え込むというよりも、我々はそういう運動の更新作用だともいえます。
とにかく、言いたいことはひとつ。我々は、ただ存在するだけでも、というか存在自体が激しい運動だということです。だって、消費エネルギーのほとんどって基礎代謝でしょ。ただ居るけで相当なコストを喰う。
だからやっぱり、日常がなんとなく過ぎていくことって”大変”なことなんですよ。どれだけの激動がただの日常で起こっているのか。そして、その運動はそれ自体で自律的で、バランスを取ろうとしていて更新を続ける。さらに僅かにズレ続ける。それが我々です。
そうすると、「人は生きるために生きる也」という言葉が親しみをもって実感されそうです。だって、なにもやってないようでも凄いことやってるんだもの。

最後に。「我々が今生きている奇跡」。それが少しでも実感できるようになれば、僕らは生きることは「幸い」になる。そして、なんだか嬉しくなりそうです。
僕はといえば、マダマダ。生きてることなんか当たり前だと思っている。しかし、ようやく日常という激闘が視えるようにはなってきた、といったところ。本当にマダマダです。変わり続けたい、僕が壊れないように。そう願うばかりです。

追。文体がね前後半で大分違うのは、書いた日が違うからです。後半のほうが平明です。でも、もう少し厳密に書きたかった気もするのです。言葉足らず。
しばらくは、書かないでコメントを待つつもりです。

コメント

  1.  こんばんみ。日常を通過することが、身体的にも心理的にも汲々であるのは大変(なんていう言葉で表現するのは気が引けるほどですが)なことだろうと想像してる。わたすの日常はと振り返ると、Baba Riさんの実感しているものとの比較はできないけれども、毎晩中途覚醒だし、朝起きる時は1時間半前から目覚ましをかけて、何度もとめてはついてを繰り返し、気持を整えていかないと起きられず、すっきりなんて体験したことねえし、起きる時のあの気分の悪さとけだるさ、この世の終わりとも思える程のいや~な感じには天下一品の自信もあるし、あ~不登校の子の気持ちがわかるでよと毎日思うし、など、考えてみればみるほど、これを汲々と言わずして何と言う?てな感じかも知れないな~なんて、思いが浮かびました。
     と、同時に、たぶん他の普通(って何が普通なのかは難しい問題なのですが)に日常を送れている人よりは、けっこう一日過ごすのが大変で、大変さを抱えたまんま、それでも一日を辛うじて過ごし、日々を繋いでいけているのだから、それはそれで、たいしたもんかも・・・などとも思ってみています。
     Baba Riさんは、きっと、おいらの想像を遙かに超えた心の世界に住んでいるのかも知れないけれど、少しでもその思いの事実に近づけるといいなあと、思う。
     実はこうしてコメント書くのも日常の中では、てえへんなのですが、どうしても読んでいるということだけは伝えたくなり、参上してみた次第です。
     丁寧で誠実な内容の文章に、こんな言葉の羅列で申し訳ない思いもおおいに自覚しながらも、Baba Riさんの心の言葉に耳を傾けていたいおいらの気持ちを伝えたくて、ずうずうしくも参上してしまいました。
     また、来ます。てか、コメントかけなくても、来てみています。

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  2. ちえぞうさん、どうも。コメント嬉しいです。
    今は、ちょっとリアクションができるような状態ではないので(え~と、こういう報告はネット上では禁忌?また会った時に話しましょう)、とりあえずコメントへの感謝の意を表しておきます。本当に、わざわざありがとうございます、と。
    なので、このコメントはしばらくしたら消す予定。ちゃんとしたコメントはまた後で書きますから。
    このブログは、投稿を5回精読すると画面が3Dになって迫力が増すらしいので(嘘)、読むだけでも是非お越しください。

    PS.今日から、秋らしい空気の匂いになってきましたね。夕方から夜にかけて、そんなことを感じました。

    では。

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  3. コメント消滅宣言ですね(笑)5回精読で3D。ええですねえ。3D三昧だなこりゃ。
     リアクションができる状態ではないのに、リコメント。おぉぉぉ。感激です。きつさあってぐったりだから、まんまぐったりしていよう・・・も好きですし、きつさあってぐったりだけんど、少しはかまってやっとくか・・・てな心の遣い方も好きですの。ほほほほほ。
     Baba Riさんのリコメントは、どうやら後者な模様。そんな風に心を遣えるおいらって、いい感じ~ってか(ひとりつっこみ、ひとりぼけ)
     
     日中の暑さはありますが、朝晩の空気の匂いは違うよね。日差しの加減も変わってまいりました。秋の気配の、そげな一瞬を今宵はじっくり味わってみましょかね。

     ではでは、おやすみんもす(嘘)朝弱く、ミッドナイトに強いおいらはこれからが一番元気。ほほほ。

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  4. 相変わらずたいしたコメントも書けそうにはありませんが、一応ケリはつけておきましょう。
    思えば、「もう日常なんて辞めてしまおうよ」というところから始まったのが、僕たちのお話なのでした。ちえぞうさん、覚えていますか?
    僕はそれでも、「苦しい苦しい」と、思いを垂れ流すようにしながら、なぜだか日常を過ごすことにしてしまった、というかなった。そのことに関しては、タイミングを逃したという気もするし、可能性を潰さないでいてくれて良かったという気もします。
    僕が今生きているのは、僕の身体が機能を停止しないからである一方、それを下支えしているのは、僕がマダマダ希望や可能性を捨てないで必死に感じ取ろうとしている故。だから最後に変わることへの願いを込めたのでした。変化しない日常なんて強要されたら、自分の意思でドロップアウトさせてもらうつもりです。このことは、また別の機会に書いたり話したりしたいと思います。
    生きていることは、たただた奇跡としか言いようのない妙であって、無条件に認められてもよさそうなもの。でも、生きているだけで素晴らしいなんて言説では、誰も救えない。僕は、少なくともその奇跡が視えるところまで登っていって「活き」たいと望むのです。はい、また後で書きましょうネ。
    それから、今回の投稿はちょっとした思い付き等ではなく、僕の大事な部分なので、これから何度か再掲される可能性があります。まぁ、リライトはしたいなぁと思ってますが。
    さてさて、ちえぞうさんは自分の日常を受け入れていますか?それとも、マダマダモット良くなりたい、と思っていますか?

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