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存在することに寄せる極めて具体的な関心~あるいは充溢する存在~ 2

100メートルを9秒台で走れる人よりも、ほとんど手足を動かすことのできない人の方が「心穏やかに」存在している。そんなことが、ある。 そういうことが、やりたかった。 人の「存在の状態」を規定しているモノってなんなのだろう。 そういうことをよく考えた。 「ここに(身体を伴って)存在するってどういうことなんだろう?」。 あるいは主観的な感想を連ねるだけで終わってしまうかもしれないし、何も収穫はないのかもしれないけれども。あるいは動機など何の下支えもないのだけれど。 そういうことが、やりたかった。 ”これ”は、体裁が卒研だから、なにかしら研究(笑っちゃうネ!)の動機から始めなければいけないのかな。 動機はなんて、どこにあるのだろう。僕自身が、「身体で存在すること」に強いモニタリング機能を備えているからかもしれない。だから、身体が十分に”楽”ではないことが判ってしまって、「キミ(自分)をモット”楽”にしてあげたい」と思うのだろうか。あるいはそうかもしれない。 あるいは、僕は疲れたのかもしれない。自分の身体と付き合うことに、ホトホト。 そういうことも、あるかもしれない。 でも多分、僕は生きることに(確定的な)意味なんかないって思っていて、だから逆説的に「生きること(活きること)」に執着を始めて、その舞台が身体(存在)になったんだろう、と思う。 百年経てば、それこそ跡形もなく消えてなくなってしまうのだから、そんなことにこだわるよりも、もっと意味を作り出す行為だってあるだろうに(石版を残すとか)。 でも、「そういう”意味のあることは”いつも副次的なんだ」と僕は思う。きっと、彼ら(誰?)の本務は「ただ生きる」ことだったのだ、と思う。だから、”これ”を「みんなのハナシ」に定立させられれば、とひそかに願っている。本当は誰もそんなことは考えないのだろうけれど、僕にとっては「みんなのハナシ」なのだ。 「みんな生きてる、やぁ奇跡」 では、また。

富良野とコーヒー リターンズ

今季、全然プラクティカルではない知性が絶好調であったであろう時の文章。せこいですね。使い回しですね。でも確かに、よく思いついてます。今の自分じゃとてもちょっと追いつけないないな。 では。 「自分が見ている赤という色は、他の人にも同じような色彩として見えているのだろうか?」という子どものときに色々な人が思ったこと。 クオリアの話では、ないですよ。 色彩はどうか知りませんが、少なくとも、世界の”見え”は人それぞれ違う、でしょう。だって、野口先生は人の身体の悪いところが黒く見えた、というのですから。僕には人の身体はそういう風には見えません。だから、”見え”、引いては世界に対する感覚全てにおいて、人それぞれ異なる側面がある、と言っていいかもしれません。まったく違うと言うと誤るでしょうが、多少の個体差はある、はずです。 ここからが本題ですが、それで、子どもは何故にして最初の疑問を持つことになるのか。思うに、それは本態的に疑問ではない。実は、子どもは”見え”が人によって差異を持つことを無意識に「知っている」のではないか。「知っている」からこそそんな思念が意識に上ると言ってもいい。「知っている」のならそんな疑問が起こるはずはない、のかもしれませんが、そういう疑問をわざわざ(「知っている」にも関わらず)持つのにはそれなりの理由があるのかもしれない。 答えをややこしくしてみると、「日常をそつなく送るために必要な、他人と”見え”を共有しているのだという思い込み、それをメインモードとして堅固にするためにアクロバティックな方法としてあえて、”見え”は共通なのだろうか、という問いを意識してみる」ということが必要なのではないかと、ふと思ったのです。 日常生活は、他人と同じ世界を共有していることを前提にしないと成り立たない。でも、実は微妙に共有していない。そこら辺の矛盾に整理を着けるために最初の問いはあるのじゃないのかな、と思ったりしたのです。何故そういう問いが有効なのかというと説明できないのですが。 もしくは、二層の現実(日常[共有]と真相[差異])の軋轢によって生じた副産物とか、そういう解釈でもいいかもしれません。解り易い例で言えば、本音と建前のぶつかった発火熱とか。実際、大人になると現実(日常)の方が強くなってきます。 ただ、これは子どもだけの話ではないです。話...

存在することに寄せる極めて具体的な関心~あるいは充溢する存在~ 1 

タイトルを多少変えて、そろそろ本当に卒研開始です。むん。 とりあえず、タイトルと章のみを。

なるだけ早めに旅立ちたい

「史上最悪の四日間」という映画を観てきました。いや、そんな映画ないんですけどね。観てきたというのは本当です。察してください。 ブレーカーが落ちてしまったような、そんな感じをもたらしてくれるワケなんですけど、その中には新味も多々あったれば、「キミ、この前もいたよね」という古参もいました。なのでその古参の話(あるいは既視感)。 困ったことに、人間という生物には精神の不調というものが付き物です。「必要だから存在するのだ」と見栄を切られればそれまでですが、本人が苦しいのだからやっぱり困ったものです。 何かを判断する事ができなくなったり、これからの出来事が不安になったり、とにかくイライラしたりする。それから、何かにつけ思考が悲観的にループする。全てのことが、自分に圧し掛かった重たい厄介ごとに思えてくる。悲観的になると、本当にモノの見え方感じ方が変わってしまいます。 というわけで、今回は悲観との再会でも題材に。 もうキレイなものでした。それはそれは。昔に会ったことがあるから、悲観の描く曲線がなんだか以前に視たことがあるような気がするのです。「ここはこう来て、こっちはこうで、ここで落ちて…あ、やっぱり?」と。なんとなく、すでにわかっている。それから、悲観的じゃないときの認識のあり方も知っているから、それとの乖離が意識される。 だけでも、苦しさは俄然健在なのです。いくら知っているからといって、トレースできるからといって、違う認識の仕方があることを知っていても、苦しいものは苦しい。 それは、思考は自分の意識ではコントロールできないということでしょう。いくらそれが非合理的で生産性のない思考であっても、またそうであることを自分の頭ではわかっていても、それは人間の認識世界を侵食していく。おのずから、勝手に破滅へと向かおうとする。頭ではわかっていても止まらない。繰り返しますが、思考は自分の意識ではコントロールできない。コントロールの埒外にある自律的な運動です。考えるという行為は、まさに「自分が主体的に」行っていると思われがちですが、その文法や定型というのはほとんど「自分の状態に」規定される。それは、自分の意識がウムウムと唸っても介入や操作はできない。 そして、思考というのはむしろ身体に属していると考えていい。だから、身体が変わると考え方も自然と変わってくるというのが僕の...

想像力とかそのへん

実は、タイトル以上のことは何ひとつわかっておりません。わかっていないから書くのだけれど、わからなさにも色々な種類があって、今回のは「分裂しているものをどう統合づけたらよいものか」わからないのです。 ①想像力が(現行の)身体状況に規定されるということは何回か書いていますし、変化が身体まで巻き込んだものになるならば、かつての想像は結局新しく上書きされるということも繰り返してきました。これは「想像したってどうせ想像通りにはならないよ」という諌めと、「想像を超えたものへ変化していきましょう」というアナウンスでした。要するに想像の力というものをあまり評価していない。 ②しかし、「念ずれば現ず」という言葉がある通り、強く想念した想いは叶ってしまうということも現実として御座います(多分、きっと)。また、「自分はしょせんこの程度だろう」と決め込んでいると、本当にその程度でとどまってしまうという弊害も御座います。これは想像の求心力なるものを讃える事例であります。 想像力は果たして、①のようにしょせん現実から常に立ち遅れる頭の戯事に過ぎないのか、それとも②のように現実を教化せしめるような理力を有するのか。 これから先は、今日は疲れたのでまた今度。 あ、いわゆる「イメトレ」は、やり方によっては有効だろうし、やり方によってはまったく無駄だと思います。多分ほとんどの人は、無駄なイメトレに労力を注いでいるかと…。 では。

明日のことは忘れました

みなさん、中国は変な国だと騒ぎ立てておりますが、どうなんでしょう。 思うのですが、周りのみんながそうだと思っていたら、自分だってそうだと思いますよね。つまり、周囲の空気に同調しますよね。中国で、みんな日本が悪いって言ってるんだったら、それにぞろぞろと賛同していくことはちっとも”変”ではなくて、ごくまっとうな世論の形成のされ方ではないでしょうか。そういう自己増殖的な大同帯に、外側から”変”だと言っても聞き入れるわけがないのです。 ”変”というのは、みんなが当たり前だと盲目的に信じていることを外側から眺めたときの視点ではないでしょうか。日本だって戦時中は「八紘一宇」とか言ってて、内側からは誰も(あまり)変だって言わなかったのだから、十分に”変”だったのでしょう。今から見ればみんなが”変”だったと言います。でも、内側で空気感染しているときには”変”だなんて思わない。外側から見てみると”変”だと思う。 だから、日本だってご立派な”変”な国です。死刑を量刑として当たり前だと思って残している稀有な国なんですから。それについてあんまり”変”だと思っていない。「犯行の残虐性を考えると死刑が妥当」なんて、完全に死刑を刑罰体系の中で意義付けしている。「この犯行は死刑に処すべきか否か犯行の残忍性を思案して」なんて言っても、死刑そのものは疑わない。みんな当たり前だと思っているから。みんながそう思っているから自分もそのように思うのです。自分独自の見解なんてあったものではない。そしてそれはまっとうで、外側からは”変”。 民主主義も資本主義もあまり変だと言われません。それはもうみんなが組み込まれて、前提にしているから。だからきっと、”変”なんだろうなぁ、と思うのです。 今は、日本政府の対応に対して変だ、おかしいなんて声が飛び交ってメディアを席巻(そして多くの人を扇動)していますが、みんなが変だって言っている、その状態が”変”なんですからね。だから、日本だってしっかりと”変”です。みんなが変だって言い始めてその主張を疑わないのだから。 要するに、賛同者が増え始めて、みんなが口を揃えて何かを主張しだしたときに、それはもう”変”なんだと、そして自分のことを”変”だと思えなくなるんだと思うのです。マイノリティーである内はぶつかるべき大勢があって、割と自分のことについて考えますから。自...

ベステンダンク

え~とですね、これから書くことは、実にしてホントただの思いつきなんですけどね、テーマがテーマなんで軽々しいことは書けないんですが…。 いや、死刑制度についての話なんですけどね。 僕は基本的に、死刑という刑罰が現代日本において施行されるということに、全然プラスの意味が見つけられないのです。だったらお前は死刑廃止論者かというと、僕はそういうイデオロギー的なものを体内に蔵していないので、あまり当てはまらない。漠然と「死刑ってなんかあんまりだよなぁ」なんて思ってるぐらいです。だから、「なぜゆえに死刑に反対するのか」などと詰問されると、自分の意見みたいなものをキッチリと整備しているわけではないので、理路の通った説明なんてできないのです。もう答えに窮してしまう。下手すると、「なんとなくです…」みたいなモヤッとしたことを口にしかねない。 しかしですね、一個ぐらい言えることはですね、「殺人者の命を刑罰で消すことによって(報復によって)、遺族の感情にケリをつける」ということが、非常にクダラナイと思うのです。 死刑なんて、本当は誰も得をしないんです(多分)。だけども、死刑という制度はあって、それを支える論拠は「遺族の感情を斟酌せよ」という命法なのだと思います。 「自分の大切な人を殺した人間を殺してやりたい」という人がいるのはわからないでもないのです(自分にそういう感情が生じるかどうかはわからないですが)。 でも、僕は思うのだけれど、そういう理不尽な出来事(殺人事件の遺族になる)は、もしくはそれに起生するやっかいな心理的状況は、最終的には「自分で引き受けるしかない」。 死刑によって「ようやく気持ちの整理がつきました」なんていうのは、問題解決の主体性を外部に委ねてしまっていて、本人による”乗り越え”という作業が欠落しているように思うのです。死刑で「ようやく…」という人に対しては、「本当にそれで、もういいのですか?」と訊いてしまいたくなるのです。もちろん、殺人というまさに「理不尽」に巻き込んれ、精神的機能に打撃を受けた人に対してそのような態度をとるのは如何なものかというツッコミはあるでしょうが…。 しかし、それでもやはり、というよりかはむしろ、本人(遺族)の為にも死刑というシステムによる一瞬の裁断的カタルシスにすがるべきではないだろうと思うのです。 苦悩に幕を降ろすのに...

存在することに寄せる、極めて具体的な関心~あるいはソマティクスと感覚的世界像~

どうも。卒論の試案をそろそろ始めようかと思います。 順次アップデートしていく予定です。 では。

Farmgirl

自分が大切にしたいことを、一言にして表してみようと考えたときに、これはなかなか難しかった。 頭が働いてくれるのも大事だし、身体が楽になってくれるのも大事だ。 とにかく、ひと言ではまとまりそうになかったのです。 しかし、はたと思いついた表現が、「自由であること」でした。 これならば、広範囲の状態に渡って感覚的に接合が可能だと思いました。 具体的には何も書かないので、なんのことやらまったく判らないと思いますが、僕の中では一本のフラッグが立ったような気がするのです。 「自由であること」。それには通俗的に、それの裏っ返しとして「責任」が伴うなんて言います。そしてそれは、往々にしてネガティブな事として語られるのです。「責任を背負わなくちゃいけない」なんて。「社会的責任は重い」なんて。 だけど、僕は思うのだけど、「自由であることによって責任を立ち上げることができる」のだと思うのです。責任が無かったらなにも始めることはできない。自分で立つこともできない。 責任を持つということは実にポジティブな事なのだ、と僕は思います。 責任がなかったら、自分の人生を楽しむことなんてできやしない、と思う。 自由であれば責任を持つことができる。自由の代わりに責任を負う、というトレードオフではないのです。そういう自由は、僕の考える自由とは違う。僕の考える自由は、もっと自発的で内発的なものです。ある日、使いきれないほどの金銭を与えられて、自由に使ってください、という自由とは違う。 それから、いわゆる「自由人」の自由とも全然違う。 どんな人でも、どんな境遇でも、自由になることはできる。なんだか、怪しい精神論を語っているようにも見えますが…。 自由ということは、おそろしく誤解を招くのですが、僕は最大限にそれを尊重したいと思っています。

Unsung Song

僕は、僕という個人内部にいろいろな問題を抱え込んでいる人間なので、他人のことを心配したり世の中のことを憂いたりする余力というものはほとんど残されていません。自分のことで精一杯なのだと言ってもいい。それに、「世界を救え」とか、そういう特命を受けているわけでもありません。 しかし、そうは言っても、僕が僕の内部に深く垂鉛を降ろしていったときに、どうしても僕が存在する理由とか、そういったものを尋ねたくなる。そして、そういったものに応えてくれる(或いは物語を与えてくれる)のは、僕自身だけではなくて周りの世界だったり社会だったりします。 それは、僕という個人が生きている理由のそもそもは、僕が生まれる前の世界が有しているからです。僕が生まれたのは両親がいるからであり、その両親にはまた両親がいて、それに先立っては多くの先人がいて、彼らがこの社会というものを形成してきたのであって…。僕という個人は、後からこの、今ある世界に投げ込まれたのであって、僕は世界に対して立ち遅れている。だから、僕という存在を深く突き詰めていったときに、その理由や起源を辿りたくなったら、僕を覆っている世界や社会に目を向けるしかないわけです。それは「血」だったり「星」だったりします。 僕の起源はまわりにある。さらに言えば、僕の今ある姿は、因果的にその産み出す土壌となった世界や社会と結び付けられていると言ってもいいです。僕自身をほどいてみようとしたら、必然的にそのまわりも視野に納めなければならない。僕とまわりの世界や社会は、そもそも不可分だということなのかもしれません。 僕は、身体といったものに焦点を当てるのが好きで、それは非常に個体レヴェルの思考対象なのですが、それが個人的に深く沈潜していったときに、僕という個体を通して世界を見通さなければならないという気がします。 それは、「社会学的な方法論を身につけろ」とか「科学的なデータを集めろ」といったことではなくて、自分の深部を通して世界を観て、そこから汲み取ったものを自分の言葉で語れということなのです。僕は、批評法とか分析法とかの知識を得ることを大切だとは思わないのですが、自分の底深くに潜っていくような、そういう鍛錬は大事なのではないかと思っています。 あまたの手法によって、多くの人が社会を分析したりしてみせていますが、僕は自分の底を経由した言説でなけ...

ばなな

引用です。 じぶんより7つほど若い人のお葬式に出ました。 身体の変調に気付いて、 入院してから10日も経たないで亡くなったので、 参列していた人たちも、 実感の伴いにくい悲しみを抱えて、集っていました。 謙虚で穏やかな人柄だった故人の写真が、 こっちを見ていました。 「気のいいやつって、さっぱりしすぎてるんだ」と、 まず、ぼくは思ってしまいました。 俺なら、もっと粘ったり足掻いたりじたばたする。 だめだよ。そんなにあっさりと生きてることを譲っちゃ。 先輩ぶって、そんなことも思ったのでした。 しかし、そこに、ふっと、 「おまえ、らくになったんだなぁ」という気持ちが、 混じったことに、じぶんで驚いたのです。 この世から、早めにさよならすることを、 悲しんだり残念がったりしているだけじゃなく、 「らくになって、よかったのかもしれない」と、 ちょっとでも思ったことに、どきっとしたのです。 それは、おそらく、人並み以上に丈夫なじぶんのなかに、 「らくになってしまいたい」というこころが、 微量でも存在しているということなのでしょう。 子どもっぽい競争に夢中になれたり、 先を見なくても走っていればいいことがあると、 信じられるような時代だったら、 先に逝く人に向って「ちょっといいな」なんてこと、 思えるはずがないでしょう。 ぼくがこれまで経験してきたなかで、 いまって、いちばん生きるのが難しい時代だと思います。 ここまで「希望」を語りにくい時代だとは、 思いたくなかったのですが、どうやら、そうみたい。 ぼくは、それを、実は無意識に感じていたんだなぁ、と。 そう感じているじぶんと、目が合ってしまったのでした。 「希望」なんてニンジンがぶら下がってなくたって、 人間、あんがい強いからたのしくも生きていられます。 でも、気やすめでない「希望」ってものが、 ほんとは探せばあるよってことを、言ってみたいなぁ。 希望のかけらでも、希望のくずでも、うれしいんでね。 今日も「ほぼ日」に来てくれて、ありがとうございます。 アントニオ猪木じゃないけど、元気があるって大事だぞー。 以上、ほぼ日刊イトイ新聞「今日のダーリン」9月9日より http://www.1101.com/home.html 僕は、生まれ...

壁の中へ

我々には「感情」という非常に人間的な”働き”がある、なんて言われることがあります。 この場合、人間的であるということは、動物性から脱却しているということを意味するのでしょう。 動物にも感情があることは(人間とは違った形態であれ)もう明らかでしょうから、そのことについてどうのというワケではありません。 問題なのは、感情というものは純粋に自然の産物なのではなくて、文化的意匠の内面的規律なのだということです。つまり、感情には特定の文化圏での共通了解という側面があるということです。 ところで、一口に感情といっても、それは内面の情動のことなのか表情などへの発露のことなのか、という問題もあります。ここでは、一応両者とも”意味を賦与させたならば”(後で説明します)「感情」と括っていいということにしましょう。 さて、僕たちは、感情というものは放って置けばそのまま出来上がる、そして出来上がり方はレディメードへの同化という形をとる(皆同じ種類の感情を保有する)と考えているふしがあります。 しかし、感情には、自然的側面と文化的側面があると考えておくといいと思います。 多くの文化では嬉しいときやおかしいときに笑いますが、人間の共同体で育てられなかった子どもはきっと笑えません。それは、「笑う」という出力が形成されなかったのと同時に、笑いと共にある内面的感情が適切な形に造形されないということでもあります。つまり、「うれしい」とか「おかしい」とかいう感情自体が無い。きっと、それになる前のうねりみたいなものは生来持っているのでしょうが、それが感情という意味へ形が整うことがない。 要するに(?)感情というのは、形が定まらない情動に意味を与えて”発散”させてあげる鋳型なのだといえるでしょう。そしてそれは後天的に身に付けるものである。だから、人によって微妙にグラデーションが異なったりする。 だから、大事なのは感情という形式のパターンをたくさん保持しておくことです。そうすると、多種多様な内面のうねりに、逐一適当な意味賦与ができる。”感情を割る”とはそういうことでしょう。だから、感情が豊かな人というのは、そもそも内面から多様な感情を産出しているのではなくて、同じような傾向をもった内面の動きを細かく割って処理する能力が高い人のことを指すのでしょう。内面の情報処理能力です。情報自体は大...

ニーチェ誤読

自分に対して怒りを覚えることって、ありますよね。 自分を許せないって時って、ありますよね。 そういう憤りを糧にして、自己超克を図ることって、方法論の一つです。 僕は、積極的にそういう方策を採りたくはないけれども、どうしてもそういう気持が起こってしまう時は、とりあえずその気持にも一理あることを認めてあげたいと思います。つまりは、怒れるときは徹底的に怒ってみるしかない。 原理としては、「今の自分の状態は、自分じゃない」と、現状の自分を自分として認めないというものです。つまり、現状の自分の状態と自我を乖離させてみる。そして、いったん切り離した自分の状態をめった打ちに否定するワケです。否定しておいてどうするのかというと、その否定は同時に高みを志向する力でもある。叩いておいて跳ね上げあるバネとかをイメージするといいかもしれません。 それで、現状の自分を乗り越えようとするわけです。 しかし、やってみるとわかりますが、これはどうも自分を高めていくための方法論ではないという気がしてくる。どちらかというと、「自分を殺したいほど憎んで、乖離させておかないと乗り越えられない心的状況がある」と言ったほうが近いかと思います。つまり、不甲斐ない自分を受け入れてしまうのは辛い(自分はこんなものだと諦念するのは辛いですね)ので、敢えて突き放して「今の自分は自分ではない」と宣言した方が”楽”だということです。 そして、さらにやってみるとわかるのですが、この対処法には心の強度が必要です。 自分をしっかりと突き放して見据える心的強度です。これが、自分から目を逸らしてしまうと「ま、いっか」と自分をなでなでと可愛がってしまうのです。許しがたかった自分を愛でてしまういうのは、非常に背理的行為で、はっきりいって気分の悪いものなのです。自分を肯定することと自分を可愛がることは全然別物のハズです。 要するに、我々には自分を憎むという過程を経ないと上手に乗り越えられない心的状態というものが時々現出するわけで、そういう時には一度徹底的に憤るということも大事なことなのではないかと思うわけです。まぁ、そういうことは、ないに越したことはない。 で、そういう危機を上手く乗り越えるとちょっと成長したかなとか思われて、「あのときの怒りはバネだったのだ」とか解釈しちゃうんでしょう。僕としては、怒らないと耐...

レンガを積む

人間が、毎日の生活を当たり前のように、また変わり映えもせぬものとして反復的に送ってゆくこと。そのコストはタダではない。そして、毎日を送るということは、実は当たり前ではなくとてつもなく”大変”なことである。これが、これから書くことの書き始め段階での結論予想です。 僕は、現状の日常生活を保っていくことに多大なコストを費やしている人間であります。具体的には挙げませんが、日常のケアの為に、金銭的な投資も時間リソースを割くことも、世間一般よりも大分高い水準で行っていると推測されます。というか、普通は(?)ただ日常を送ることにコストなど投じていない(と思っている)、のかもしれません。でも、考えてみて下さい。本当は生活中の一挙手一投足全てが日常を保持せしめるために機能しており、また同時に日常それ自体でもあるわけです(例えば食事)。僕がコストを費やしているというのは、「ケアのため」という意図が明確にされていて、生活動作一般とは別にカテゴライズされている行為が日常に(わざわざ)組み込まれているという意味です。何はともかく、僕は日常を経過可能なレヴェルで維持するために汲々としている人間なのです。もし僕がそのような日常への投資を「ぽいっ」と放棄してしまったならば、僕の日常はガラガラと崩壊する、もしくは著しく心身状態を低下してそれに見合った日常しか選び取れなくなる(例えば仕事ができなくなる)でしょう。だから僕は、なんら自分の状態に気を配ることなくつつがなく日常を送ることができる人というのが羨ましかったりします。まぁ、それは別の話。 とにかく、実際に日常の維持に緊張感を伴って生きている人間が言うのですから、日常とは大変な「大仕事」であることは間違いありません。「日常なんてなんもしないでも勝手に進行して、壊れるものではない」と思っていられる人は、水面下での「維持を更新し続ける」激動に対して無自覚で済んでいるということでしょうか。 さて、話を少しずつずらしていきましょう。先ほど僕は、「維持」のためにコストを投じていると書いたように思いますが、実は当たらずとも遠からずといったところで、「維持」というのは実際に駆動している働きの半面しか捉えていません。僕はもう一方では(というか本音は)、「変化」のためにコストを投じているつもりです。「生物は動的な平衡という効果のことである」というようなこ...

大阪万能ネギ 再掲

”状態を割る”ということです。身体を割ることの大切さは甲野善紀先生が説いているし、感情を割ることの大切さは田口ランディさんが言っていますが、ぼくは”状態を割る”ということも大事なんではないかと、思っていまして。 どういうことかというと、体調が優れない、気分が悪いときって、だいたい漠然と「悪い」わけです。それがもうちょい細かく、胸椎の何番が硬くなってて、だからこういう具合に悪くなってるんだなとか、あのことが心配でそれが負担になってるんだなとか、自分の状態を細かく割って把握することが大事なんではないか、という話です。「悪い」のだって、色々な悪さがあるわけです。それらの差異を認識することの重要性。 そういう風に、「悪い」が違いをもって立ち現れてくると、悪いときの処方のバリエーションが増え、適切になりやしないかと思うのです。どこがどう悪いのか。なぜ悪いのか。どうすれば良くなるか。こういう知恵を個人で持ってると、割と生きやすいのではなかろうか。もちろん、人間は総体として動きますから、どこを治しても、全体的に効いちゃう。漠然と「良く」なる。そういうことはありますが、ポイントを押さえておいた方が確実性が高いと思われます。 本当は、日常生活の中で自然と「悪い」が流れていって平常に復すというのが理想なのでしょうが、今のご時世なにかとケアだって必要なんです。 ”状態を割る”それは自分の声をつぶさに聴き分けるということです。

誇れるものといえば

あんまり、批判めいたことや攻撃的なもの言いはしたくないのですが、これぐらいは言っておいてもいいのではないかなと思うことがあります。 それはですね、大人になったら「ワ○ピース」を読むのはそろそろ卒業してもいいのじゃないか、ということです。いまや社会人をも巻き込んで、幅広い層から圧倒的な支持を受けているということは重々承知しておりますがゆえに。 そりゃあね、あのような物語を読むことによって励まされたり勇気付けられたり、つまりは「ワ○ピース」にマッチする人々の層だって存在するだろうとは思います。だけども、現状のような人口への膾炙を考えると、必ずしも「ワ○ピース」とは相容れない性質を持った人たちが、なにか無理やりという風に、それと併走する癖を身に付けているような気がするわけです。そういう人たちは、「ワ○ピース」を読むことによって心理的に追い立てられたり、気疲れしたりすることがあるのじゃないかと思ったりします。 なんででしょうね? 好きな人は好きで、いいと思います。疲れる人は、逃げてもいいと思います。 最後は、引用で締めます(出典は敢えて示しませんが)。 「本当の気持ちよさは静かで、無重力的で、手応えがないものです。」 つながってますか?大丈夫ですか?

富良野とコーヒー

「自分が見ている赤という色は、他の人にも同じような色彩として見えているのだろうか?」という子どものときに色々な人が思ったこと。 クオリアの話では、ないですよ。 色彩はどうか知りませんが、少なくとも、世界の”見え”は人それぞれ違う、でしょう。だって、野口先生は人の身体の悪いところが黒く見えた、というのですから。僕には人の身体はそういう風には見えません。だから、”見え”、引いては世界に対する感覚全てにおいて、人それぞれ異なる側面がある、と言っていいかもしれません。まったく違うと言うと誤るでしょうが、多少の個体差はある、はずです。 ここからが本題ですが、それで、子どもは何故にして最初の疑問を持つことになるのか。思うに、それは本態的に疑問ではない。実は、子どもは”見え”が人によって差異を持つことを無意識に「知っている」のではないか。「知っている」からこそそんな思念が意識に上ると言ってもいい。「知っている」のならそんな疑問が起こるはずはない、のかもしれませんが、そういう疑問をわざわざ(「知っている」にも関わらず)持つのにはそれなりの理由があるのかもしれない。 答えをややこしくしてみると、「日常をそつなく送るために必要な、他人と”見え”を共有しているのだという思い込み、それをメインモードとして堅固にするためにアクロバティックな方法としてあえて、”見え”は共通なのだろうか、という問いを意識してみる」ということが必要なのではないかと、ふと思ったのです。 日常生活は、他人と同じ世界を共有していることを前提にしないと成り立たない。でも、実は微妙に共有していない。そこら辺の矛盾に整理を着けるために最初の問いはあるのじゃないのかな、と思ったりしたのです。何故そういう問いが有効なのかというと説明できないのですが。 もしくは、二層の現実(日常[共有]と真相[差異])の軋轢によって生じた副産物とか、そういう解釈でもいいかもしれません。解り易い例で言えば、本音と建前のぶつかった発火熱とか。実際、大人になると現実(日常)の方が強くなってきます。 ただ、これは子どもだけの話ではないです。話を広げると、人間は、実はもの凄く「知っている」のだということに繋がっていくのです。 正解とかはないですから、後でなんか考えたらまた書きます。

再燃するまつぼっくい

”ウツ”についての話ですが。これはしばらく前に考えていたことであります。 ”ウツ”は一般的には感情・気分系統の問題として取り扱われることが多いと思います。理由もなく気分が塞ぎこんでしまうのが”ウツ”なのだという風に。それで、どう解決されるのかというと、「気分が晴れる」のが”ウツ”からの快復と見做される訳ですね。いや、昨今の精神医療領域でどういう解釈がなされているのかということは全然知らないですけれど、一般に流通する「感覚」としての話です。 僕は、これは随分乱暴なというか、お門違いな捉え方だと思っています。”ウツ”は、感情や気分に属するというよりも、知覚や感覚に属すると考えた方が、正解かどうかは知りませんが、適切な対処がしやすいと思います。 簡単に言ってしまえば、前者はフレームを上下移動する働きであって、後者はフレーム自体が変質する働きです。僕は、”ウツ”は感覚フレームの濁りとして捉えるのが臨床的に有益であるし、「正しいに近い」と思っています。だから、「気分が晴れる」なんて全然”ウツ”からの快復じゃないと、言いたいのです。 あまり多くのことは判りません。今言えるのは、”ウツ”からの快復は静かに、静かに、あるいは歓喜などとは程遠い場所で果たされるということです。 また、何か思いついたら書くかもしれませぬ。