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うれしいお風呂

  僕は九九が言えない。言えないというのは「全部をスムーズには言えない」ということで、一の段から順番に暗唱していくと大体どこかでつまづく。ちなみに「大化の改新」の年号も覚えていないのだけど、この辺に関しては、「恥ずかしい」というよりも余計なことをスッパリと忘れ切ってしまう自分の忘却力を褒め称えたい。というより、そういう暗記ものを忘れてしまってさて困ったぞ、という事態に遭遇したことがないので、差し当たって自分のもうろくぶりに活を入れる機会がない。というか、皆の常識だったらむしろ忘れていたい(らしい)。   とにかく、九九が言えない、わけだけど。それは多分僕のせいだけじゃない。きっと九九の側に(も)重大な欠陥があるに違いない。というわけで、以下は「人はいかにして九九を忘れるか」について。   当然のことだけど、九九は二つの数字を入れ替えても積は一緒。3×4も4×3も12。で、次。九九は暗記ものだけど、音を体で覚えちゃうわけで、それを素直に暗唱し続けているうちはまず忘れない。   問題は実際に運用を始めてから。35という数字がある。九九だと5×7か7×5。で、35という数字と九九が結びついたとき、ほとんどの人は「直截的に」5×7か7×5を頭に浮かべる。五の段を最初から数え上げたり七の段を最初から数え上げたりする人はあんまりいない。そして大抵の人は5×7か7×5のどちらかだけを思い浮かべるのであって、両方を使う人は稀だと思う。ちなみに僕の場合は7×5=35(しちごさんじゅうご)の方が圧倒的にしっくりくる。というわけで、僕にとって35=7×5であり、そんな計算を繰り返す内「しちごさんじゅうご」という音が自然と頭に(もしくは体に)強くプリンティングされていく。だからこの場合、七の段の5でつまづく(しちごさんじゅうご、で詰まる)ことはまずない。危ないのはもう一つの35、5×7=35(ごしちさんじゅうご)の方だ。こっちは全然唱える機会に恵まれず、すなわち「ごしちさんじゅうご」という音はさっぱり馴染まなくなっているばかりか、35(さんじゅんご)という音と7×5(しちご)という音ががっちりと結びついてしまった結果「ごしち、さんじゅうご」には違和感すら漂うことになる。   さて、そこで五の段の暗唱に入る。   5...

Allelujah

  「失って初めて大切さがわかる」というのは本当なのか、について。健康を語るとき(など)に盛んに使われるその手の言い草だけど、僕はひじょうに疑問を持っていて、別に疑問を持つぐらいなら健全だとしてもどっちかというと「うさん臭い」とすら思っている。もうそういうことを口にする人間はあんまり信用しないようにしたいとすら思ったり。   というのは言い過ぎだとしても、僕の信条は「歓びは歓び自体に依拠する」というもので、それはその背景にある苦難とか悲しみとかはどうでもいいとかいうことじゃなくて、いかに乗り越えてきたものが<今>に重要な役目を果たしていたとしても、結局歓びを噛み締めるには歓びの中にいる必要があるということで。   健康も然り。病に倒れて健康の大切さを味わうのは勝手だけど、「活きるからだに嬉しくなる」というのは本当にからだが元気なときにしかありえません。   どっちにしろ、「あぁ、あの頃は良かったな」なんて感傷的になるのは貧しいよなぁと思う。「感傷的」と「穏やか」って全然違うんだから!   だいたい、平穏無事な健康のどこが素晴らしいんだと。今動いている中で「楽だ」とか「心地いい」とか感じなかったら、そんな「健康」要らないよと。失ったものの大切さを味わうなんて、<今>以外に想像力を伸ばすなんて、どんだけ豊かな感性だよと。   牛乳を混ぜたリゾット、おいしかった。でもコンソメが薄すぎてちびっと失敗。もっとおいしくご飯を炊けるようになりたい。

スケートなんて連れて行かないで

早く消さなきゃ。著作権法違反。社会性を発揮しなきゃ。なかなかもったいないんだけど。 ぼく消すよ。消すんだってば。絶対消して見せるんだ。 細野晴臣さんの「スポーツマン」(あるいはsportsmen,YMO)の歌詞。和訳。 あくまで勝手にやったやつなのでいろんなところボロがあると思うんですが、そこは大目に。あと、すごい意訳。全然英文に忠実じゃないですから。「can't seem to find the right charge」の箇所に関してはかなり怪しい。「多分こんな感じ」という見切りで。誰かわかる人、教えてくださるととってもありがたいです。 元の歌詞はいろんなサイトに載ってます。 毎日心配なんだよね 僕って拒食症なんじゃないかな 体力つけなきゃ なかなか気力も湧かないんだけど 君のお母さんはもしかして水泳選手で お父さんは体操選手 スケートなんて連れて行かないで 卓球だってまともにできやしないんだから みんな僕のことを貧弱だって言う あの娘をちゃんと抱きしめることだってできない 君はプールサイドのスターで その曲線美に僕は居ても立ってもいられないよ ※スリムになるさ スリムになるさ スポーツマンになるんだ 最近眠れないんだ 不眠症かもしれない 渇いたからだを満たして欲しい 君にね 君のお兄さんはバットマンなんて呼ばれてて 君のお姉さんがワンダーウーマンだってことみんな知ってる 日曜日が目に浮かぶよ きっとぶっ倒れちゃうんだ 家族みんなで体力づくり 照明の下でね みんな僕のことを軟弱だって言う なかなか気力も湧かないんだ ※スリムになるさ スリムになるさ スポーツマンになるんだ ※「be a good sport」は熟語で「スリムになる」という意味らしいですが、全体の意味を考えるとスリムになってもしょうがない。おおよそ「強くなるさ」ぐらいのニュアンスだと僕は捉えています。おそらく、サビの部分は細野さんも最初から英語で考えていたと思うので、そもそも日本語に訳すこと自体無理があるんだと思います。だからここの部分はむしろ、それぞれが勝手に解釈した方がいいんじゃないかと。

赤いくつ、履いた君は

 現実を、目の前から一度ひっぺがして浮き上がらせる。現実が、べたっと一面現前に貼りついている状態ではなくて、むしろそれを引き剥がして不安定な状態にさらす。現実を「今ここ」に限定するのではなくて、複数多面的に起ち上げる可能性を嗅ぎとる。要するに、信じているものからいっぺん距離をとり、目線を引く。冷静になる。「見えているものをその背後から見る」。現実を自明なものにしない。 そういうのが、(内向的人間の)唯一の成長の仕方だと、僕は思っているんだけど。

Kimono〜魔女裁判にかけられたりしないかしら〜

期末レポートです。タイトルは「ロシアがたどこさ(宗教浪漫編)」でした。結論から言えば、最後は野口先生で落としてるんです。「自己の本質とは、自己を構成せんとする力なのだ」ってね。天風さんも言ってますね。「俺は力だ」って。かっこいい。 どうでもいいですけど、これは僕のレポート史上最高に脱線してるんです。ぜんぜん違う話をしてるんです。まぁいいよね。脱線させてそれをどっかにつなげる能力ってほんとに大事ですから。でもこういうのを「学術的な」レポートとして提出するのは、ちょっとどうかなって、自分でも思わずにはいられない。別に良心をとがめられたりはしないけど、子どもが遊んでたら叱られて「あうぅ」的なことですね。それにしても、いったい誰に向かって書いているんだろう。まぁ、二人ぐらい読んでくれてるのは知ってるんだけど…。  発表では、ロシアにおける宗教の現状やその大黒柱であるロシア正教の歴史などの概説に終始してしまい、それは要するに「教養講座」なのであって、全然面白い事にはならなかったと反省している(まぁ、それはちゃんと勉強しない自分が悪いわけだけど)。だからこのレポートではせめて、自分の考えたことを中心として組み立ててみたいと思う。ただ相変わらずの勉強不足であるから、考えるための材料は極めて不足していて、自分の頭で考えたそのほとんどが「ただの妄想」としかならない危険性も大いにあり、それはそれで恐ろしいのだけど、レポートで Wikipedia の要約のようなことをしても仕方がないのだから(それを読まされる方も辛いだろうし)、できる限り「自分勝手な」議論を繰り広げてみたいと思う。以上、前置き。  日本には、「いまいちキリスト教が広まらなかった」という歴史がある。このことは何を示しているのか。日本の場合そこには弾圧の歴史があるから事態をややこしくするのだけど、ではもし国家的主導者(この場合には江戸幕府将軍とかになるのだろうか)がキリスト教を擁護し信仰を推奨したとするならば、果たしてキリスト教はこの国でもっと大きな勢力となっていただろうか。もしくはそれは「乗り込んだ順」の問題なのかもしれない。キリスト教より先に仏教が人々の間にしっかりと根づいてしまっていたから、だからキリスト教にはすでに入り込む余地がなかったのだ、と。 しかしそれなら、おとなりの国韓国はどうなのだろう。そもそも仏教...

Pool〜そもそも自由なんてあるのかしら〜

  例によってレポートの季節がやってきました。レポートを書くのって、大変だったり簡単だったりします。大変なときはだいたい「よくわかんないもの」が出来上がります。これは難産でした。タイトルは「表現の自由について(そもそも自由なんてあるのかしら)」でした。ふー、疲れた。  どうでもいいけど、ご飯食べると身体ってちょっと硬くなりますよね。この感覚わかる人いるかな。 「表現の自由」ということは日本国憲法で保証されていて、もし出版にコードをかけるとすると自治体の条例などによって規制されることになるわけだけど(実際に、とある知事さんはそれにやっきになり)、それの是非はともかくとして、ひとまず僕らには原理的に表現の自由が与えられていて、極稀にそれが制限されるという実情がある。僕が疑問に思うのは、出版に規制をかける場合そこで議論の対象となるのはいつも「表現の自由」という点だけど、出版コードは本当に「自由」が争点なのか、 ということである。  出版に規制がかかるとき、それはほとんどの場合為政者側が「自らの統治に対して(あるいは自らの統治してしてるこの社会の秩序に対して)有害」という判断からなされる。そういう「自らの状況を不利にする」ものに対して出版を禁じるということが「自由」の侵害という論点に繋がるわけだけど、その「自由」だってそもそも為政者側が定めた「程度のもの」じゃないか、という気がする。憲法の条文を読めば「出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」となっていて、「自由」は「保障される」ものとされ、つまりは「保障する誰かがいる」わけで、その保障する為政者側が転覆するのなら「保障された自由」も消し飛ぶ理屈である。だったら、国家が転覆するような表現には、そもそも「自由の保障」はつかない。だから、治世に危険を孕む表現に為政者がコードをかけるのはある意味当然だと言えるし、憲法で定められている「自由」とは「我々の統治が安寧である限りは」ということになり(国家が機能しなくなれば「自由」を保障できなくなる)、そこには条件付きの「自由」がある。  そういう話は、例えばプロレタリア文学とか革命文学とか、「本当に」社会体制を改変しようと目論む表現の場合にはよくわかる。そういうケースでは、革命を志向する側とそれを阻止しようとする側の衝突の問題だから、ほとんど「自由」は関係ない。表現者の...

いい子になります

それとははっきりと意識されないけれど、微細な緊張が全身に張り巡らされている。普通なら気づかない程度の、それによって逆に厄介さを増すごく微細な緊張。まるで霜降りのように全身に遍在している。。 これのもたらすものは、身体レベルでのコミュニケーション不全である。「言葉のキャッチボール」なんてものなら出来るけれど、それ以前の身体的交感力の低下の甚だしさよ。だから、他者と共感することの歓びなんて得られなくて、そもそも人とあんまり会いたくなくなる(でも話すべきことはいっぱいあるんだけど)。 何度も繰り返すことになるけれど、「恢復」とは元の自分に戻ることではない。それはむしろ、自分を変容させること、過去の自分から跳躍すること、である。その転機に「病」というものは出現するのであって、だから病は、「このままの自分では問題あるぜ」という無意識的訴えだという解釈だっていい。そういう風に思っていない人は、「うつが治る」とか「うつが再発する」とか言う。いや、別に「うつ」に限らなくてもいいですけど。 話は戻って、しばらくは暗黒時代となりそうです。迷惑を掛けるであろう方々、申し訳ないです。でもそれは僕のせいじゃない。 話は変わるけど、「自分のせいにしない」というのはこの社会を生きていく上で非常に大切な態度だと僕は思う。人のせいにするのはどうかと思うけど、自分を責めたって良いことなんか一つもないんだから。そんなヒマがあったら養生した方がいい。「新型うつ病は自分が悪いと思わない」そうだけど、僕は自分を苛みそうになったら、「いーや、おれは悪くない!ぜーったいに悪くない!」とキツく言い聞かせる。そうじゃないとやってらんないんで。新型うつ病の方々、僕はよくわからないんだけど、あなた達も実は大変なんでしょう。だって、仕事休んでディズニーランド行っても何にもならないじゃない…。それは上司や同僚の不興を買うだけであなた株を落として損ですよ。全然得しないじゃない。あなた達が自分のせいにしないのはきっと適応反応でしょ。だから、「自分が不利益を被るような行動を取るのは原則的に自分のせいじゃない」ということになる。これを皆に当てはめると危ないけど、少なくともそう思っていた方が楽になる人がたくさんいる。 話は戻って、もう負けてもいいから、せめて訴訟は。おかしいことに対しては、きちんとおかしいと言わなけれ...

神に会いに(悪魔め、そこどけ)

苦難というものがどういう形を伴っているのかはわからないけれど、少なくとも「苦しみ」そのものを苦難と呼ぶにはふさわしくはなくて、「運動」が滞ってしまったときに、あるいは流れが止まってしまったときに、そこに悲しみのようなものが生じてきて少しずつ存在をむしばむことになるのだろうし、つまり、動けていればそれ自体が善きことであるし、そこから何かを起こせる、と思っています。 自分の力を活かさないことが最大の不幸だと考える人間にとっては、苦境はむしろそれ自体では不幸とはならずに、それに対する自分の立ち方が大きなウエイトを占めるわけで、そういうことは何度もの繰り返しになってしまうけれど、とにかく自分の「世界の捉え」さえしっかりしていればどこかに希望を見いだすことができる、と思っています。 「心のみ実在する」という野口先生の言葉を信じる人間にとっては、先を見る「想い」さえ湧いているのなら(物資的にどういう状況下であろうとも)生きていける、と思っています。 と、以上のようなことを、他でもない自分に言い聞かすのでした。「想い」さえ活きていてくれるのなら。動け。 竹内さん、どう思いますか? ―はい、それまーでよ(一同笑)

みんなで暮らす

ツイッターというものがありますよね。これはネットの掲示板なんかでも話は同じだと思うのですが、それの一つの用途として、今現在の心情、感情、とにかく頭に浮かんだ事柄をパッと(まさに気の向くままに)自分の外側へ向けて発信する、という使い方があります。例えば、「ハラ減った」とか「○○うざい」とか。そういった類いの使い方。 これは要するに、リアルタイムで自分が感じたことをポロッと表出できるということです。ツイッターが身体性が高いというのはそういうことです。一日の終わりに(もしくはもっと長い単位で)自分の感情や思考を整理したときに、おそらく端数として切り下げられていたであろう(つまり、自分史には刻み込まれない)ファクターが逐一報告されているということです。当座の、すぐに過ぎ去ってしまうであろう感覚、後で冷静に考えればたいした意味も持たない要素、そんなものがわざわざ記録されていくから身体的だというわけです。だって、身体感覚とか感情って常に揺らいでいるわけじゃないですか。そういうのは、後で纏めてみると均されてタイムリーな感覚を失うけれど(日記にするとそうなる)、つぶやいていると、そういう浮上してこないはずのデータが残ってしまうわけです。それで身体的であると(ちょっと説明まつがってると思いつつ)。これは内田樹さんが仰ってました。多分僕、あんまり解ってないんですけどね。とにかく、いいように捉えると身体性が高いということになってくる。 でも僕は思うのだけど、例えば今独りで寂しいとして、「サビシイ」とネット上でつぶやくことに一体どんな効用があるのだろうか。その時々の感情や思ったことを他人に伝えたいという感覚はよくわかります。すぐ電話とかしたくなるし。それから、道路を自転車が四列並んで走っていて(しかもその四台会話しながら)逆方向からすれ違う余地がまったくない、なんて走行を目の当たりにしたときは(ホントにあったんですよ)、「ウザイ!」と言いたくなる。できれば誰かに「ねぇねぇ」って愚痴りたい。だけれども、そういう一時の「精神的突起」は普通、自分の裡に留めておくものです。それが大人の態度というものです。いくら親しい人であろうと、その人が恋人でない限り「あばたもえくぼ」とはならず相手に対して不快な感情を持つことは当たり前です(ですよね)。たまには「ウザイな」と思うことだって正直ある。でもや...

パーマカルチャー

自己実現とは、今の自分が思っている目標を設定するわけですね。つまり、今の自分が見える範囲で目標を設定し、それに向かって意味づけをするわけですが、今の自分に見えている目標なんて貧弱なもんじゃないですか。 実際には、何かやっている間に目標なんて変わっていくわけですよ。だれかに会って、「ああ、こういう生き方もあったのか」とか「こういうことが大事なんだ」と、自分が当初、視野に入れていなかった新たな目標ができてくるんです。絶えず立て換えていく。目標って、そういうもんだと思う。いいかえると、あまり目標を先に立てて、「これだけだ」と思うのは、逆に自分を縮めこめてしまうんです。 以上、鷲田清一『哲学クリニック』pp32-32。 なんや同じこと言ってるや、と思ってウキウキして読んでました。何回か似たようなこと書いてますからねー。「今の自分に見えている目標なんて貧弱」という所が素敵ですよね(ですよね?)。こういうのを臨床哲学だって言うんだったら、僕だって哲学できそうです。なんや毒にも薬にもならない(観念的)哲学ばっかりが学術的価値を帯びがちですが(多分ね)、こういう地べたを這うような哲学があるかと思うと少しホッとします。あるいは人によっては、「そういうのは人生哲学っていうんだよ」と仰せるかもしれませが、それはそれでなにか違和感が残りつつ。 なにはともかく、いい意味でのプラグマティズムの復権って大事なんじゃないだろうかと思う次第です。学校では「マジな話」、大事なことって全然教えてくれません。まぁ、勝手に学べよってことになるわけですが。

風車が折れる

ずいぶん前のレポートです。なんか大江健三郎さん(の小説)について書いてます。 僕は、文芸の世界はまったくの門外漢なので、適当なことを書き散らしているような気がします。そして、大江さんの小説を読んだことがない人には話がまったくわからないと思います。別に誰かのために書いているわけではないので、そういうことです。でも、最後には「ものを書くこと」全般に話が及んでいくので、まったくちんぷんかんぷんということもなかろうと思ってます。風車が折れたのは、別の人の小説でした。 『取替え子』はモデル小説である。だから、事実が大江さんを通して文章になっていたりするし、つまり、実際に起こった出来事が含まれている。塙吾郎の「ドスン」は、周知のように伊丹十三の自殺を示しているし、その後長江が海外にしばらく滞在することになるのも、大江さんの事実に即している。しかし、吾郎の「ドスン」を長江に知らせることになる「田亀」は大江さんの創作であるという。「田亀」は「ドスン」前後の二人のインタラクションとしての役割を果たしているだけでなく、物語的にも長江の心理葛藤に顔を出してきたりと終始重要なファクターとなっている。それだけに、創作と言われれば「確かにそうだろうな」という気はする。しかし、「田亀」が事実と密接に絡められ、加えて描写や設定があまりにも細部まで行き届いているので、それすら本当に存在したのではないかと思えてきてしまうのだ。  これは『取替え子』だけの話ではない。それに連なる『憂い顔の童子』や『さようなら、私の本よ!』でも、さすがに創作的要素は高まるものの、長江の家族構成や生育歴、故郷の伝承などが大江さんのそれと繋がっているわけだから、「本当の部分」が幾分か含まれているのであろうことが想像される。大江さんのそういう傾向がどのあたりから始まったのかはわからないが、少なくとも『個人的な体験』では光さんの出生が描かれているわけで、昔からと言えば昔から、随分長いこと事実と創作を織り交ぜて小説を作ってきたということになる。 しかし、それはもうとっくにわかりきっていること。少し、フィクションということにおいて話をずらす。 物語には、小説にはと言ってもいいが、ストーリーがある。そして、その中で事件的な出来事が起こる。保坂和志のように、当たり前の何気ない日常を描いていたって、(日常でも何かが起こっているように)何...

12月の5日間

(また)レポートの転載です。ちょっと加筆してますけど。内容は、以前にここで書いたことの使い回し(応用?)みたいになっています。   ヒロシマとナガサキについて、僕たちはほとんど何もわからない。それは知識として知っているかどうかということではなくて、実感として思いを馳せることができないということ。いくら末代まで伝えようとしても、ある部分は必ず薄らいでしまうはずである。だから、僕たちの世代は、ある種の人たちは過剰にそれについて語りたがるし、ある種の人たちはそれについてあまりにも無関心になる。どちらにしても、自分の体験として内部に宿していないという点では同じである。  でも話は、そこから始まる。僕たちは、「僕たちがまったく関与しなかったことにも責任を担った方がいい」。それは、当時の人たちにしても同じことだろう。そこでのフツー人たちは、戦争についてまともな情報を与えられていない。自分の頭で考える、という状況ではなかったはずだ。ましてや、彼らのどれほどが「加害者」としての条件を満たしているかと考えると、ほとんどの人がまったくの「白」だとすら言える。それでも、フツー人にも責任があるのだと言う。何もしていないのに責任があるというのはおかしな話なのかもしれない。だけども、僕たちはまっさらな姿で生まれてくるわけではない。僕たちは、全ての人間が後任者なのだ。親を持たない人間はいない。全ての人間が「血」を持って生まれてくる。つながっている。原理的には、親の責任は子供の責任ではない。もし責任というものが一身に担わされることによって治まるものならばそれで構わないだろう。だけども、責任というものはどこかに片付けて置くことができるものなのだろうか。或いはそういうやり方もあるのかもしれない。それが「軍部が悪い」とか「東条が悪い」といった言説で、そういう「責任の押し付け合い」はあらゆる場面で行われている。だけども、責任というのは、どこかにあてがうことで他の部分には免除されるといったものなのだろうか。  僕は経験的にそう思うのだけど、自分で色々な責任を貰っておいた方が振る舞い方が自由になる。責任を持っていると自覚したときに、立ち方がしっかりとして次に行動を起こすための態勢が調う。例えばさっきも書いたように、僕らはまっさらな姿でこの世に登場するわけではない。そこには始めからさまざまなしがらみがある。...

ロビー・イシュー

※スポーツマンの歌詞をググるとなぜかこっちのエントリーがヒットしちゃうみたいなので、最初に書いときます。 スポーツマンの歌詞は別のエントリー。「スケートなんか連れて行かないで」というタイトルのやつです(「スポーツマン」でブログ内検索するとよいかと)。これは一切関係ないです。どうも変だと思ってたの。細野フリークの皆さん、失礼致しております。 心理学の授業のレポート。現行の(良く知らんけど)認知行動療法に対する憤りがちらほら垣間見えます。  うつ病や統合失調症など、いわゆる精神領域での病について調べてみると、結局突き当たるのは「わからない」ということである。それは、原因や経過の仕方なども含めていまだに説明しきる枠組みが確立されていないということである。しかし、だからといって、うつ病や統合失調症が「良く」ならないかというと、そういうこともない。「わからない」のはそう悪いことではない。むしろ、解明されてしまう(説明が通ってしまう理論の確立)と、問題は次のステップへ進み、より深遠な「人間と病」という課題と向き合わなくてはならなくなるだろう。だから、今のところは「わからない」まま最善手を模索して行くしかないし、「わからない」ことは決してマイナスの事態ではない。  という導入。  うつ病の場合、原因は「内因性」と「反応性」(もしくは「外因性」)に大きく大別できる。「内因性」は、特にこれといった「思い当たるふし」はないのだけれど、目覚まし時計のようにある時が来たら発病するといったケースである。「反応性」は、なにかしら外部からのストレスが加わった場合に発病するケースである。例えば、家族や恋人を失うとか、災害にあうとか。「過労」や「上司によるパワハラ」も「反応性」に当たる。どちらがより重篤な病気となりやすいかというと、「内因性」の方である。「反応性」の方は、原因がはっきりとしている(少なくとも説明はできる)だけに、そのストレス源を取り除いたりするだけで回復する場合もあるし、少し休むだけでも症状が好転することもある。「内因性」の方は血縁者に多発するといったケースも多く(ヘミングウェイとか)、遺伝となんらかの関連性があると考えられ、その分話は簡単には済まない。単純に重いか軽いかの問題だけではなく、治りにくいのも「内因性」の方である。  統合失調症の場合、ほとんどは「内因性」が...

2040年の出版文化

期末レポート転載。 2040年というとずいぶん先の未来のように感じてしまうけれど、要するに今から30年先ということだから、今20歳の人が50歳になる頃の話で、多くの人にとってはまぎれもなくやってくる未来である。決して僕らの生きることのない未来の話ではない。実際に経験するであろう未来の話なのである。   そんな未来の出版文化。   これから「出版文化はこう動いていくだろう」などといった妄想をしてみるけれど、それは多分、2040年の出版文化を予想することにはならない。というかできない。「今」できることは、「今」に存在するファクターをもとに未来像を構築するのみである。 しばらくすれば、予想だにしなかったファクターが世に登場してまた未来像を書き換えてしまうはずである。「未来」は、徐々に、自然に、なってしまうものである。それは次々と登場する(「今」からは想像もできなかった)ファクターが複雑に絡まりあっていつのまにか…、というように。だから、未来予想なんてものはほとんど当らない。「今」から「未来」へ一気に想像を飛ばそうと思っても、そこには「推移中の時間項」というものが欠けてしまうから、結局材料不足である。そして、当てる意気込みでやったものが当らないのだから、当てるつもりもない予想なんてなおさら当るはずがない。   まずはそういう言い訳から。   だけど、「今」、「未来」を予想することがまったくの徒労かといったらまんざらそうでもあるまい。「今」から「未来」へ想像を飛ばすことが、とりもなおさず「未来」を構築していくであろう「想像もできなかったファクター」を立ち上げる一つの要因となるかもしれないからである(もしかしたら)。つまり、「今」と「未来」を橋渡しする中間項を生み出す原動力となるかもしれないということ。だから、当るかどうかということよりも、いかに未来を構築するファクターの発生源となれるかどうかが「未来予想」の意義に関わってくるのではないかと思っている。だから、「今」予想することは、これから少しずつ変わっていくであろう世界に対するささやかな働きかけなのである。   で、本題。   電子書籍はどうなるか。紙の本はどうなるのか。   文字は、実際に手を動かして練習しないと身に付かないから、多分学校とかでは相変わらず手書きでの漢字練習などが残るのだろうと思う。だけど、...

アフォード

アフォーダンスということを、僕は少し誤解していたらしい。有機体(人間とか動物とか)が周囲の環境に”関わり方”を見出した時に始めてアフォーダンスは発生すると思っていたのですが、どうもそうではないらしい。つまり、具体的に言うと、「平らな、地面に水平にある板を見つけて「座れる」と感覚した瞬間に「座るアフォーダンス」は生成する」と考えていたのですが、そうではないということですね。 どうもアフォーダンスは、有機体に「発見」される前から環境側に潜在的に「実在している」ということらしい。だから、「実在論」ということになる。 だけど、有機体に発見される前のアフォーダンスって、まったく”意味”になってないですよね。というか、有機体は環境から無限のアフォーダンスを引き出すことができるわけで、環境に潜伏しているアフォーダンスというのは、形を形成する以前の「可能態」だということでしょう。 つまり、「ある」ことはあるんだけど、それがどんなものになるかは未知数で、「存在する」という事実だけが存在するという事態になっている。イメージとしては、粘土の塊があって、それはあるんだけど、まだ「なにもの」でもなくて、造形されて始めて「なにもの」かになる。そして、「なにもの」になるかというのは、作り手との関係性の中で生まれてくることであって、粘土自体には無限の造形可能性がある。そんな感じではないでしょうか。 そして僕は思うんだけど、コレって言語に似てないかなってことなんですよ。アフォーダンス的言語論ってどうすか?粘土の比喩って、言葉の生成のときによく使うんですよね。「身体という環境」なんてね。 すんません、多分自分にしかわからないことを書いて、一人で「フフフ」とほくそえんでいます。やや気持悪いです。「そもそもアフォーダンスって何?」という人、すみません。僕らが、ポールを見るとグリップしてしまうということがアフォーダンスっぽいイシューです。 では。悪の組織に誘拐されなければ卒論の続きをします。